詩とポエムの違いは何か
本当のところ、自分の詩作には関係がないので、どうでも良いのだけれど、前回ポエムキモいって言ったら、予想以上の方に見てもらえて、噛みつかれたりして面白かったし、実際、この「詩とポエムの違い」というテーマ自体は(多分)面白いので、書いてみます。ポエキモでは詩人の態度、姿勢についてしか語らなかったので、純粋に形態と内容について考えてみる。
後、僕自身、詩を齧っただけの、詩人になっていない素人なので、このような発言が生意気であることを詩人の皆様には許していただきたい。
語りえぬものについては、沈黙しなければならない
以前、スペースで話をしていた時に、詩の定義について聞かれた。(その質問も浅いし何も理解していないのだなあとは思ったが)このウィトゲンシュタインの言葉が一番しっくり来る気がする。(ウィトゲンシュタインはミリしらだけど)詩は語り得ぬもの、何だか訳の分からないもの。何だか訳のわからないから詩だとも言える。
誰も私に尋ねなければ,私はそれを知っている。 私に尋ねる人にそれを説明しようとすると,私はそれを知らない
まあ、そういうこと。で終わらせても良いのだが、もう少し言語化するのならば詩は直感に近いのだろうと思う。けれども、それを詩だと直感する時に人は「おそらくこれは詩だろう」という逡巡を多分に含む。逡巡こそが詩の判断になるとも言えるのではないか。
とは言うものの、語り得ぬものなので、詩とポエムの違いを考える時はポエムについて考えた方がはやい。と言うのも、詩は否定神学的にしか輪郭が浮かび上がってこないからだ。つまり、ポエムでも散文でもない、と言えるものが詩であると(今の段階では)思っている。
詩は、人を、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである。
谷川俊太郎が『にほんごの話』で面白いことを言っていた。よく覚えてはいないのだけれど、谷俊の言うところ、詩は「ストック」なのだと言う。「フロー」ではない、と仰ってた。僕の解釈だけれど、詩は消費を拒むものという意味だと思う。語り尽くせない何かがあり、バタイユの言う通り、連続性、永遠であること、だと思う。
今のSNS社会で流れてくる「ポエム」はどうか、と考えると消費を積極的に受け入れているものだと思う。平易な文で分かりやすい、という形もあるだろうが、消費されるために永遠になることはない。だからこそ詩ではないとも言える。永遠性とは何か。つまりところ、感覚的に言うには空間や時間の奥行き、それは詩情でもあるだろう。つまりは余剰、過剰性だ。
ではポエムの内容はどう詩と違うのか。まずはリズムじゃないかな。身体から漏れ出るような、統率されてない、或いは統率されたリズムに何だか詩を感じたりする。ポエムは意図的なリズム(これはJポップも同じ)で一瞬は楽しいのだけれど、それは過ぎ去るものだ。そして何だか身体に残らないので、中毒になる人もいる。甘い言葉で自己を肯定し、必要以上に美化するポエムは、人間の深奥を語ろうとはしていない。そもそも人間の深奥を否定して、人をまるで一律化するような視線で見ている。そしてポエムにより一律化されなかった人は排除される。ポエムの根底にあるのは実のところ、意見の押し付けであり、それ以外の否定である。アフォリズムより含蓄のない、表層的なものと言ってもいい。そして表層的だからこそ、修辞法を気にしたりする。変なルビを振ったりね。後、厨二的でイタい。共感性羞恥の問題もある。つまるところ、詩への陶酔ではなく、自己への陶酔なのである。そこに詩はない。何か誰でも書けそうというのもある。ダサい。
詩の定義については結局のところ、曖昧な方が良い。それは可能性として、詩自体がそう要請するのであり、曖昧だからこれは詩になる、とポエムは言えない。詩の可能性を残すことで新しいものが生み出される。ポエムは詩の曖昧性に漬け込んでいる。
詩は直感であるから、これは詩ではないと判断した時に、散文でも小説でもないものはポエムと言える、と思う。ポエムも結構直感なのである。勿論、分析すれば色々と差異は見えてくるだろうが、そんなやる気は起きない。自分の詩作にポエムは関係ない。直感であるから、誰もポエムと詩の違いについては語り得ない。時に昨今の卑近な散文詩では。もう少し前は大きなものに突き動かされていたのが詩だと言えたのだが……
前回のポエイタで書いた通り、詩が詩たらしめるのは詩人の態度ではないかと思う。態度についてはこの前書いたので、どうでもいい。
長くなった。つまるところ、詩は何である、とかポエムは何である、とかどうでもいい。僕が問題にしたいのは、その態度である。