#13日目:「言葉」と「ことば」の違い
ごはんを食べている途中で、急に背中に乗られる。トイレに入ってると、突然ドアが全開になる。
顔をあげると、そこにはニッコニコの笑顔。そう、相手に悪気はこれっぽっちもない。
ごはんを食べてたらなんだかママが恋しくなったから乗っかっただけだし、
ママがいなくて呼んでも返事が遠いから、探しにきただけだ。
4歳ねぇね、2歳おとうと。
効率的とか意味とか、そんなの関係ない世界に、彼女たちは生きている。
幸せは、手ざわりから生まれる
夜寝る時は私を真ん中に川の字になる。
ねぇねは私の手を取って、自分のからだにぎゅっと巻きつける。背中から抱きしめる格好になる。お腹からじんわりあたたかさが伝わってきて、私もなんだかほっとする。
もう片側にはおとうとがいる。おとうとは最初こそ私の手を握りしめているが、そのうち手をほどいて足元の方にもぞもぞと移動して眠りにつく。掛け布団はどこへやら。寒くないのかなー、とか考えているうちにからだがあったまってきて気づいたらまぶたが閉じている。
お腹と背中。手と手。抱っこして感じるからだの重み。ほっぺのやわらかさ。
毎日の幸せは、そういう体温から生まれている。理屈じゃなく、感覚で日々をとらえる。
でも、それをことばに落とし込むのはけっこう難しい。
読んだ時にあぁそうか。と腑に落ちた
この本を読んだとき、
あ、ここに書いてある内容は、いつも感じている感覚に近いかもしれない…!と感じた。
意味ある「言葉」として口や手から出るよりもずっと手前の、わずかな表情や、体温といった五感で感じるものとして、「ことば」は表れていた。
筆者である写真家の齋藤陽道さんは、耳が聞こえない。
奥さんのまなみさんも同じく耳が聞こえない。そんなお二人の間に、耳が聞こえる赤ちゃんが生まれた。樹(いつき)さんと言う。この本は、樹さんをむかえてからの日常や、気づきを綴ったエッセイだ。
聴者になじむようにと補聴器をつけ、発話訓練を努力されてきた齋藤さんの「音声が話せなければ、聞こえなければ一人前じゃない」という呪縛ゆえに中学生までの思い出が欠落している、というくだりは読んでいて苦しい。
その場の空気に馴染むような振る舞い、正しい(と思われる)応答に気を取られるあまりに相手の話してくれた内容を全く覚えていないということは私にも身に覚えがある。
今ならわかる。思い出すことができなかった理由は、こころと密接に結びついたことばを持っていたんかったからだ。ぼくはことばの貧困に陥っていた。ことばの貧困が、「思い出す」ことを困難にさせていた。
手話と出会い、こころと結びついたものとしてことばを発することができるようになるにつれて、記憶の瓶のフタは容易に外せるようになった。
齋藤さんが描く、手話の様子は、読んでいるとワクワクしてくるのでぜひ読んでみてほしい。こころと結びついたことば、自分は最近どんなことを話していただろうか?
こころと結びついたことば
社会人になって、賢いひとになりたいと強く願っていた時期もあったけれど、今の願いは子どもたちの「ことば」に気づける大人でありたい。
抱っこして~と駆け寄ってきたら抱きあげてお互いの温かさを感じたり、
あ、お月さま!と指差す子どもの視線の先をどれどれ、と一緒に見上げてきれいだねぇ、と言い合いたい。
そして願わくば、大きくなった子どもたちが、こころと結びついたことばを紡げますように。
齋藤さん、noteもやってらっしゃるのでご興味ある方はぜひ。