見出し画像

【ナビスコラ】あなたにぴったりの学問はなに?

いきなり質問させて下さい(^^)/

「社会の役に立たないと、自分がやっていることには意味がないと思う」

「どんな時でも、偏見にとらわれず判断できると思う」

「誰かとわいわい取り組んだほうが、一人でやるよりも上手くいく」

イエスだと思ったでしょうか。

それとも、ノーだと思ったでしょうか。


ちょっと気になったのなら、この「診断」でチェックしてみて下さい。


この診断結果では、

「向いている」

というのは、あくまでも

「価値観」

「研究観」

についてです。

どんな分野にでも共通している点として、つまるところ

「学問」

は、

「生き様」

で示すものなんでしょうね。


その結果、ある人間に響く人が現れて、仲間が増え、結果的に何かが変わっていく。

各自の人生も、そうなれば、嬉しいですよね。

響かなかったら、それだけということになるだけ。

それは、寂しい事ではなくて、とにかく自分が信じることをやっていく、それしかないよね(^^)/


但し、そのときの

「自分」

とは、何かということも、時には、

「省みて」

批判的に考えないといけないと考えています(^^;


■trafalgarの診断結果

General Science and Engineering

総合理工タイプ

【なにを研究するの?】
理学と工学を横断する分野を扱う学問領域です。

たとえば量子ビーム科学は、中性子などを生み出す物理学とレーザーを発生させるための工学が融合した分野です。

【どんな分野があるの?】
量子ビーム科学、計算科学、ナノ・マイクロ科学など。

【どんな人がやっているの?】
この分野の研究者は、総合と名が付くだけに、他分野と比べて特に目立つ特徴があるわけではなく、強いていうなら理学系と工学系の中間の傾向がみられます。

複合系領域がいわゆる理科系と文科系のミックスなら、こちらは理学と工学の融合というわけです。

いうまでもなく理学・工学の研究者と相性がよく、複合領域タイプと同じ傾向がありました。

【一言ナビ】
理学だけ、工学だけでは解決できない領域が増え、注目を浴びている分野です。

あなたが考えた理学と工学の組み合わせが、新しい学問分野を生み出す可能性もあります。


■学問には目的がある

・塩野七生 「わが友マキアヴェッリ」

「現代イタリアに、イタリア古文の現代語訳というものは存在しない。

ために、私も日本人から、五百年も昔の史料を読むのは大変でしょう、と感心されるたびに、なんとも複雑な気分にさせられる。

大変なのは、中世風に変形したラテン語や、現代イタリア語とは相当に違うヴェネツィア方言の場合で、フレンツェに関する限り、大変だなどと言ったら、イタリアの小学生に笑われるからである。」

だから、七百年昔に書かれたダンテの『神曲』も、現代語訳の必要はないのである。

地獄編の冒頭の部分などは、小学校四年で暗記させられる。

しかし、「学問のすゝめ」はこうである。

・福沢諭吉「学問のすすめ」

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。

その次第はなはだ明らかなり。

『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。」

なんとか意味はわかるものの、とても現代人の文章には、見えない。

これでも、新字新仮名遣いなのである。

カタカナとひらがなを転置しただけで、もう

「昔のえらい人の古典」

になってしまう。

一般の方でも、敬して、遠ざけずにはいられない。

しかし、マキャヴェリがあくまで

「当時の現代人」

すなわち、同時代人に対して

「君主論」

「政略論」

を書いたように、福沢諭吉もまた、同時代人に対して書いたのである。

この文章を現代人が読むためには、こうしなければならないのである。

・人権の平等と学問の意義

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。

つまり、天が人を生み出すに当たっては、人はみな同じ権理(権利)を持ち、生まれによる身分の上下はなく、万物の霊長たる人としての身体と心を働かせて、この世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、自由自在に、また互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽にこの世をすごしていけるようにしてくれているということだ。

しかし、この人間の世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。

貧しい人も、金持ちもいる。

また、社会的地位の高い人も、低い人もいる。

こうした雲泥の差と呼ぶべき違いは、どうしてできるのだろうか。」

その理由は、非常に、はっきりしている。

『実語教』

という本の中に、

「人は学ばなければ智はない。

智のないものは愚かな人である」

と書かれている。

つまり、

「賢い人」

「愚かな人」

との違いは、学ぶか学ばないかによって、できるものなのだ。

この初編に関して言えば、

「近代的日本国民の心得」

から

「日本」

を取り去っても成り立つだろう。

そもそも原著が書かれた当時は、

「国民」

どころか

「日本国」

がまだ成立していなかったのだ。

まさに、マキャベリの時代の

「イタリア」

だ。

それは、まだ

「国」

ではなくていくつもの

「藩」

からなる

「列島」

の名前に過ぎなかった。

そんな時代に、

「国民とはなにか」

をたった一冊の本で啓蒙してしまった福澤諭吉は、

「国父」

というより

「民父」

と呼ぶに相応しい(かもしれない)。

そんな

「臣民」

ならぬ

「国民」

とは何で、どうあるべきで、そして、同時代の

「われわれ」

がそうなるために何が足りないか。

日本は、そして世界は、当時と比べて、どれほど進んだのだろう。

あれから、我々は、どれだけ学んだのだろう。

そして、学び損ねたのだろうか・・・


■参考図書

「学問の方法」(岩波文庫)ジャンバッティスタ ヴィーコ(著)上村忠男/佐々木力(訳)

「学問の発見 数学者が語る「考えること・学ぶこと」」(ブルーバックス)広中平祐(著)

「内田義彦の学問」山田鋭夫(著)

いいなと思ったら応援しよう!