【宿題帳(自習用)】社会の時間:ほんとはこわい「やさしさ社会」
[テキスト]
「ほんとはこわい「やさしさ社会」」(ちくまプリマー新書)森真一(著)
[ 内容 ]
「やさしさ」「楽しさ」が無条件に善いとされ、人間関係のルールである現代社会。
それがもたらす「しんどさ」「こわさ」をなくし、もっと気楽に生きるための智恵を探る。
[ 目次 ]
第1章 やさしさを最優先する社会(やさしいきびしさ・きびしいやさしさ 治療としてのやさしさ・予防としてのやさしさ 実効性のあるルールとしてのやさしさ)
第2章 きびしいやさしさの特徴(敬意の過大評価・修復の過小評価 対等性の原則)
第3章 どうしてやさしさルールはきびしくなったのか?(人生の自己目的化 楽しさ至上主義 能力開発への情熱 仲間うちでやさしさルールがきびしくなった理由)
第4章 やさしさ社会のこわさ(こわいひとびと 伝わらないやさしさ やさしさとかげぐち 思いやりの落差拡大と暴力)
第5章 気楽なやさしさのすすめ(家畜をめざすやさしさ社会は、いいものか? 人生は楽しいことばかりじゃない やさしさより、気楽さ・気軽さ 攻撃の知恵)
[ 問題提起 ]
名前や名字に、
「~っち」
「~りん」
等を付けたりすることに、抵抗感が薄れたのは、いつ頃だろうか。
著者は、小学一年生の頃は、
「もりゴリラ」
と呼ばれていたそうだ。
なぜなら、身体が大きかったから。
むかしは、身体的特徴で、あだ名を決めていたものだ。
しかし、いまではこうした、あだ名は絶滅しかけているとか。
理由は、
「相手を傷つける」
からという気遣いによる。
「○○ゴリラ」と言われて、いい気はしないし、見下ろされているようなコンプレックスもあった。
それでも、
「傷つく」
という感情は、大事なものだったと思う。
傷つかないことには、
「傷つける」
ということがどういうことか、理解することなく成長しただろう。
著者は、いまどき見かけなくなったものとして、
「おまえのカアチャン、でべそ」
と口喧嘩する風景をあげている。
そんな、なんでもない場面から、
「やさし過ぎる社会」
のゆがみを読み解いていこうとするのが、本書の試みだ。
[ 結論 ]
現代は、他人を思いやる
「やさしさ」
や
「温かみ」
に欠ける。
とは、よく言われることだが、著者の捉え方は、すこし変わっている。
「過度にやさしいひとが増えた」
のが、
「つめたい社会」
をもたらした原因だという。
著者は、1962年生まれの社会学者。
強引に論を展開するでもなく、仮説と推論をつないで、結論を導きだそうとする。
10代からの読者を対象にしたプリマー新書だけあって、ぜんたいに平易で読みやすい。
たとえば、誰もが身に覚えのあるこんな話。
電車で、お年寄りに席を譲ろうかどうしようか、迷ったあげく、寝たフリを決め込む。
断られるとカッコがつかないし、ときには、憮然と拒絶されかねない。
だから、慎重となり、結果的に、見なかったことにしてやり過ごす。
そこには、こんな心理が働いているとみる。
「やさしくない」とまわりの人に思われているのではないか。
思われたくないからの居眠りのポーズ。
脳内では、当然、言い訳づくしのひとり問答が繰り広げられることになる。
もう一例。
学生が授業中に私語を交わすのをやめないのは、マナーの問題と考えがちだが、著者は、別の要素をあげている。
応じないと、話しかけてきた友人に悪いから話すのだという「やさしさ」。
無視したと思われて、後々、ギクシャクしたくないという「やさしさ」。
いずれにしても、友人関係を重んじるあまり、まわりに対しては無神経。
木を見て森を見ず、というのか、意識は仲間にしか向いていないため、ひいた目でみると、これも、やさしさがやさしくない結果につながっている。
さらにもう一例。
友人とプリクラを撮るときに女子高生たちは、わざと顔をゆがめ「ブス」に写るようにする。
なぜ、彼女たちが、わざわざブス顔にするのかというと、かわいい自分と並ぶと、友達を傷つけてしまうからだとか。
これも、「上下」をつくらない、均一化のための気配りとして定着したやさしさである。
「学生に、“あなたは友人に悩みを打ちあけるか、打ちあけないとしたらその理由は何なのか”というテーマのレポートを何年かだしてきました」
著者が授業で集めた結果は、
「打ちあけない」
と答えた学生が大多数だった。
「もう相談したら、相談した自分が相手よりも一段下の立場になり、対等な関係でなくなるから」
というものと、
「楽しい時間を重い話題で台無しにしたくない」
という意見が、目をひいたという。
現代は、若者に限らず、誰もが
「上下」
に過敏な社会である。
だから、もっとも嫌われるのは、説教と自慢。
もちろん、
「上から目線」
を感じるからである。
こんな事例もある。
Aさんの友人Bさんが、ブログで仕事の不遇や不満を書き綴っているので、励ましのメールを送ったら、立腹の電話がかかってきた。
励まそうとする行為が、そもそも
「上から目線」
で、Bさんは、Aさんの親切がカンに障ったらしい。
納得のいかないAさんは、Bさんに、
「でも、(Bさんがひいた)おみくじに、同じ助言が書いてあったけど?」
と尋ねた。
「いいの。あっちは、神様なんだから」
Bさんは、おまえはタダの友人なのだからとシレッとしたものだったとか。
Aさんは、
「タダ」
の一言に、不満が拭えないようだった。
ちょっとしたことでキレしてしまう大人たちの増殖も、実は、微妙な
「上下」
へのこだわりが根底にあるのだろう。
著者いわく、
「いまの日本人は、身分差のない武士的存在」
らしい。
ちょっとした言葉づかいに、
「自分はばかにされていないかどうか」
と神経を尖らせている。
それもこれも、タテマエとして、誰もが、
「対等な社会」
になったからで、すこしでも、下に扱われたとたん、自分を、まるごと否定されたかのような不安に陥るからだろう。
最後に、タイトルに結びつく、こんな一例を。
2006年8月、JRの特急電車内で起きた婦女暴行事件。
車両に、40人も乗客が居合わせたなかで、女性が強姦された。
「乗客、みてみぬふり」と報道された事件だが、誰一人、女性を助けようと行動しなかったことが注目を浴びた。
著者は、想像だと断りながらも、こう推論している。
まさかという思い。
予期せぬ事件が起こると、人は、なかなか行動できないものだ。
電車でそんな事件が起きたなんて、聞いたことがない。
だから、
「注意して、イチャイチャしているだけのことならどうしょう」
と慎重になってしまったのではないか。
老人に、席を譲るのと、同じにはできないが、そこには、注意して、逆に、恥をかいたりしたくないという、翻せば、
「失敗したくはない」
というプレッシャーが働いているとみる。
「たとえば、現代人が恥をかかせてしまうことにそれほど慎重でなければ、多くの乗客が「何をしてるんだ?」と容疑者に干渉していたでしょう」
根底にあるのは、失敗をおそれるがゆえに、何もしないでいる、そんな
「予防的なやさしさ」
の浸透。
隣家で殺人事件が起きても、通報が遅れたりするのも、著者の論をあてはめてみると、
「都会の無関心」
と片付けてしまうよりも、説得力があるように思えるのだ。
[ コメント ]
では、改善策はあるのかというと、決して歯切れはよくない。
過度にやさしい社会の発端は、1970年代のはじめ頃からで、何十年かして、横並びの「武士」になったものだけに、いまさら刀狩りもできまい。
ある種のルーズさというか、互いにカンペキを求めず、「悪口」を言い合い、ガス抜きするくらいの気楽な関係づくりをうながす程度に留めているあたりは、逆に信頼ができよう。
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【参考記事】
文部科学省で定められている基本の教科は、以下の10教科です。
■国語
■社会
■算数
■理科
■生活
■音楽
■図画工作
■家庭
■体育
■外国語活動(英語)
外国語活動は、2020年に改訂された学習指導要領から必修になりました。
小学3・4年生では、「外国語活動」、5・6年生では、「英語」の教科として含まれます。
その他の教科・活動として、小学校の授業では、上記の10教科の他に、以下の2種類を編成できるそうです。
■道徳
■特別活動
■総合的な学習の時間