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【宿題帳(自習用)】音楽の時間:音楽の聴き方

[テキスト]
「音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉」(中公新書)岡田暁生(著)

[ 内容 ]
音楽の聴き方は、誰に言われるまでもなく全く自由だ。
しかし、誰かからの影響や何らかの傾向なしに聴くこともまた不可能である。
それならば、自分はどんな聴き方をしているのかについて自覚的になってみようというのが、本書の狙いである。
聴き方の「型」を知り、自分の感じたことを言葉にしてみるだけで、どれほど世界が広がって見えることか。
規則なき規則を考えるためにはどうすればよいかの道筋を示す。

[ 目次 ]
第1章 音楽と共鳴するとき-「内なる図書館」を作る(音楽の生理的次元 相性のメカニズム ほか)
第2章 音楽を語る言葉を探す-神学修辞から「わざ言語」へ(「鳴り響く沈黙」とドイツ・ロマン派の音楽観 神の代理人としての音楽批評 ほか)
第3章 音楽を読む-言語としての音楽(「音楽の正しい朗読法」-一八世紀の演奏美学
音楽/言語の分節規則 ほか)
第4章 音楽はポータブルか?-複文化の中で音楽を聴く(再生技術史としての音楽史
演奏家を信じない作曲家たち ほか)
第5章 アマチュアの権利-してみなければ分からない(音楽は社会が作る/音楽が社会を作る?-パウル・ベッカーのテーゼ
音楽は政治的にうさんくさい?-「感動させる音楽」の恐怖 ほか)

[ 問題提起 ]
タイトルから想像されるとおり、本書は一種のハウツー本である。

あるジャンルの音楽に関して、

「分かる」

「分からない」

という言い方があるけれど、本書は、音楽を、

「分かる」

ようになる。

つまり、ある音楽が、

「いいな」

と思え、楽しめるようになるための方法を、興味深い実例を、数多くひきつつ、教示してくれる刺激的な啓蒙書だ。

音楽とは、せんじつめれば、音の響きなのであって、はじめから言葉を超えており、だから理屈をいっても仕方がないので、ひたすら感性に磨きをかけ、感覚を研ぎ澄まし、先入観に毒されぬ純粋で無垢な心で音楽にひたすら耳を傾けましょうという立場と、本書は対極にある。

音楽が

「分かる」

とは、その音楽の属するジャンルが、暗黙の前提とするルールを知ることであり、

「一つの文化」

に参入することである。

そして、その文化の

「歴史を知り、価値体系とそのメカニズムと含蓄を理解し、語彙を習得すること」

だと筆者は結論づける。

早い話が、勉強しなさいというわけだ。

たかが趣味で音楽を聴くのに、勉強がいるのかよ、と不満に思う向きには、外国語を理解するには、語彙や文法の勉強が必須であり、同じことが、音楽にもあてはまるのだとする、本書に述べられた類比が説得力を持つだろう。

論述の背後には、現在の音楽文化に対する著者の危機感が見え隠れする。

音楽文化を支える共同体の消滅と、商品化された音楽を、心地よい響きを、耳に入れるためだけに消費し、好きな音楽を、自由に聴けばいいと思いながら、結局は、似たような音楽を、孤独のうちに、脳へ注ぎ込む人々の姿。

彼らは、音楽の楽しみの大きな部分を、失っているのではないか。

音楽をめぐって、人と人が言葉を交わすことこそが、音楽の本当の悦びをもたらすのではないか。

そのように問う筆者の論述は、音楽文化の地平を超え出て、人と人との交わりの場であり、文化創造の場である「社会」を喪失した現代文明への批評になっている。

真に、考え抜かれたハウツー本が、高い批評性を持ちうることの、本書は、好例といってよい。

[ 結論 ]
聴き方の本というよりは、音楽を語る言葉を磨くための本である。

人は、音楽を、自由に聴いているようでいて、過去の経験や、知識に、大きな影響を受けている。

だから、作品のポテンシャルを深く味わうには、聴き方の癖=「型」を自覚して、感動を、言語化していくことが大切だという。

「型」が持つ共同体形成の力の形成が重要となる。

人は、なぜ、ある音楽には感動し、ある音楽には、無反応なのか。

音楽の趣味とは、何なのか。

人間は、理解可能なものしか理解できないのと同じで、感動にも、あらかじめ、反応の下地が必要だというのだ。

「自分の感性の受信機の中のあらかじめセットされていない周波数に対して、人はほとんど反応出来ない。

相性がぴったりの音楽との出会いとは、実はこれまで知らなかった自分との出会いかもしれないのだ。」

クラシック、ロック、ジャズなど、音楽ジャンル特有の

「型」

というものがある。

こういう風にきたらこうだよね、というパターンは、ある程度、言語化され、社会的に共有される。

型を踏襲したり、新鮮味を与えるために、敢えて、離れたりする名演には、聴衆の喝采が送られる。

型を感じるための受信機がセットされていないと、音楽は、そもそも味わえないのだ。

小林秀雄の

「ひたすら聴けばわかる」

という見方は嘘である。

聴き手だけでなく、評論家たちも、型を仕事に使う。

型との関係性を言語で説明するのが、批評行為ということだろう。

プロの演奏者たちも、型を言葉にしている。

身体・運動感覚の言語化には、特徴的な現象がみられるという話が、興味深い。

プロの音楽家たちが、リハーサルで使う特長的な言葉づかいを、著者は、抜き出した。

わざ言語と呼ばれる類の

「砕けていて端的であり、感覚的で生々しい」

フレーズである。

「40度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて」

「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」

「おしゃべりな婆さんたちが口論している調子で」

「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を」

身体性の語彙を、芸術家たちは、共通語として活用するわけだが、これは、芸術だけでなく、職人技の仕事全般にも、通じる話だろう。

暗黙知を共有するための符号なのだろう。

それでわかる人はわかるし、わからぬ人は永遠にわからない。

聴き型を知っているかどうかで、音楽の演奏の仕方、批評の仕方、味わい方のすべてが、変わってくるということがよくわかる。

[ コメント ]
音楽は、

「言葉にできない」

のではなく、むしろ、言葉によって作られていく面もあるのだ。

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【参考記事】

文部科学省で定められている基本の教科は、以下の10教科です。
■国語
■社会
■算数
■理科
■生活
■音楽
■図画工作
■家庭
■体育
■外国語活動(英語)
外国語活動は、2020年に改訂された学習指導要領から必修になりました。
小学3・4年生では、「外国語活動」、5・6年生では、「英語」の教科として含まれます。
その他の教科・活動として、小学校の授業では、上記の10教科の他に、以下の2種類を編成できるそうです。
■道徳
■特別活動
■総合的な学習の時間

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