見出し画像

【個性的な作曲家がいっぱい】酒を愛した作曲家

愛好家にいわせると、百薬の長であり、血行や、頭の働きを滑らかにするのが酒。

真実は、酒の中にある。

真実をいう気持を持つためには、酔っていなければならない(リュツケルト)、なんて言葉もあるように、小説家や、音楽家、画家等、所謂、創作活動をする人と酒との関係は、意外にも、深いようです。

音楽史をひもといても、特に、酒好きとして知られた作曲家が何人か見つかるからです。

例えば、その筆頭は、クリストフ・グルックと、モデスト・ムソルグスキーではないでしょうか。

共に、その酒で、命をおとしているのですから。

オペラ「オルフェオとエウリディーチェ」で知られるグルックは、表向きは、脳溢血で、死んだことになっているのですが、実際には、ブランデーによるアルコール中毒死です。

というのは、日頃から、ブランデー愛好家であった彼。

晩年に、軽い卒中で倒れて以来、医者から、これを禁じられ、妻からも厳しく見張られていたそうです。

ところが、その妻が、何かの用事で外出した折、家中を探して、一本のブランデーを見つけてし まったのです。

しめたとばかりに、飲み始めたのはよかったのですが、禁酒によって、アルコールに対する免疫がなくなっていたのでしょうか。

あっという間にひっくり返ると、そのまま息を引き取ってしまったそうです。

「展覧会の絵」でおなじみのムソルグスキーも、まったく同じ。

ロシア人であるから、多分、ウオッカだったと思われるのですが、若い頃からの愛飲に、母親の死(彼26歳の時)が、拍車をかけ、4年を過ぎる頃には、完全なアルコール中毒者に、1881年、演奏中に倒れた彼は、急拠病院に収容されて、禁酒の療養を強いられることになりました。

ところが、まじめな養生によって、回復したかに見えた誕生日前のある日。

付添いの一人が、誕生日の祝いのつもりで差し入れたのが一本のブランデー。

喜んで飲んだムソルグスキーは、たちまちおかしくなり、奇しくも、誕生日の朝に、亡くなってしまったのでした。

42歳、日本では、厄年にあたっています。

ビール好きとして有名なのは、アントン・ブルックナーです。

オルガユスト、長大な交響曲で知られるオーストリアの作曲家ですが、彼は、行きつけのビアー ホールをもっていて、毎晩、一時頃に現れると、ジョッキ2~3杯を平気で平らげたそうです。

ジョッキの大きさを想像してみると、もしかして、8リットル以上?大ビン10本は、軽く超えていたかもしれません。

食事もしたであろうから、その健啖ぶりには、まさに脱帽です。

しかし、酒では死なずに、肺炎によって亡くなっています。

どの位の酒量かはっきりしないのですが、やはり、酒好きだったと思われるのは、フランツ・シューベルト、モーツァルト、ヨハネス・ブラームス、ベートーヴェンらです。

シューベルトは、156センチぐらいという小柄な体格をしていたのですが、あだ名は、ビヤ樽气、というのも、仕事は、午前中に済ませて、午後は、大抵、酒場か、レストランで、ビールを飲みながら、友人たちと喋っていたそうです。

つまり、かなりのビール好き(ただし、金のない時は、それより安いプンシュ酒)で、そのためにビール腹になったと思われるからです。

一方、モーツァルトも「銀の蛇」という行きつけのビヤ・ホールを、ベートーヴェンも「駱駝」という飲み屋を、行きつけにしていたと伝えられています。

ベートーヴェンのそれは、主として、ワインで、平常は赤、時に、ハンガリー産の白だったとか。

客といっしよの時は、ビールも飲んだといいます。

しかし、飲み過ぎることはなく、あくまでも、食事をうまくするための健康的な飲み方であったらしいとのことです。

もう一人のブラームスは、ウイスキーで、これは、何かの折に、グラスからこぼれたものを、「勿体ない」といって、人前で平気でなめた、という話が残っています。

肝臓ガンで亡くなったことを考えると、かなりのドリンカーだったのかもしれませんね。

食いしんぽうの作曲家。

食べることは、人間のもつ、根源的な欲望です。

音楽家とて、例外ではなく、これにこだわった人は、大ぜい、いそうな気がするのですが、音楽史に有名な食いしんぼう(食通といったほうがよさそうですね)というと、まず、思い浮かぶのは、イタリアの作曲家ジョアッキーノ・ロツシーニです。

「セビーリヤの理髪師」「ウィリアムーテル」等のオペラで知られる彼は、76歳の生涯のほぼ半分、37歳の時に発表したオペラ「ウィリアムーテル」を最後に、ぷつりと、オペラ作曲の筆を折ってしまいます。

そして、残りの大半は、それまでのオペラ(四作)から得た莫大な収入をもとに、パリに住み、旅や美食に明け暮れるという、うらやましい生活を送ったのですが、もともと、食べることに関心があったせいだったんでしょうね。

あれこれと、食通らしいエピソードを残しているのですから。

例えば、ある家の食事に招待されたが、満腹しなかったために、帰り際に、「また、お食事にどうぞ」といわれて、「今でもいいのですが・・・」と答えたとか、スパゲッティや、マカロニの材料に詳しく、パリのパスターショップの主人が出した、偽の材料を見破って舌を巻かせた、といった話は、比較的よく知られたものです。

もっと、ポピュラーなのは、現在でも、高級レストラン等のメニューに見かける「トウルヌドー・ロッシーニ」を残したことです。

ステーキの一種であるこの料理は、牛のヒレ肉を脂身で包み、糸で縛って円筒形にしたものを、分厚く輪切りにして、バターで焼いたもの。

これに、鴨等のレバーでつくったパテを塗り、野菜等を添えた上に、マディラーソースをかけるという、いかにも、脂ぎって、太りそうな代物。

しかし、美味しいことは間違いなく、フランス料理のメニューには、堂々と入っているそうです。

毎日かどうかは知らないのですが、こういう料理を、好んで食べていたせいに違いないと思われます。

残されているロッシーニのスケッチや、写真を見ると、いづれも、でっぷりと太った、いかにも「食いしんぼう」そのものといった顔姿ばかりです。

肉のロッシーニに対し、魚料理が好きだったのは、ベートーヴェンです。

イリゲンシュタットに住んだ時には、「薔薇亭」という料亭へ、よく魚料理を食べに行くのが習慣だったと伝えられるし、客をもてなす時には、鱸(すずき)、鱈(たら)、鯉等の料理を、好んで出したそうです。

それも、良質なものをと、かなり神経質に手配したことが明らかにされています。

もっとも、魚だけでなく、肉のシチュー、豚の血を固めたハンガリー風のソーセージ、野鴨、その他の鳥肉の料理なども好きで、特に、シチューの中に、パンを煮こんだスープは大好物だったと言います。

ただ、自分で料理することはなく、大抵は、家政婦にやらせていたようです。

そのほか、肉屋の息子だったドヴォルザークや、居酒屋に生まれたヴェルディ等も、多分、食べものには、興味があったと思われるのですが、特に、それらしいエピソードは見かけません。

ただ、戦前のわが国では、確か「ヴェルディ風ステーキ」というのが、レストランのメニューにあったそうです。

何らかの裏話があるのかもしれませんね。

なお、作曲家ではないのですが、往年のロシアの名バス歌手であるフェオドルーシヤリアピンは、1936年に来日した折、帝国ホテルで「シヤリアピンーステーキ」というのを作らせ、同じく、ソプラノ歌手N・メルバは、アイスクリームの上に、桃等をのせたデザート菓子「ピーチーメルバ」を流行らせて、現在に伝えています。

やはり、相当の食いしんぼうだったに違いないと思われますね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?