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【宿題帳(自習用)】理科の時間:科学の現在を問う

[テキスト]
「科学の現在を問う」(講談社現代新書)村上陽一郎(著)

[ 内容 ]
科学と技術の発展は人間を幸福にしたか?
原発・医療・情報化など様々な角度から問い直す。

[ 目次 ]
第1章 科学研究の変質
第2章 技術と安全
第3章 医療と現代科学技術
第4章 情報と科学・技術
第5章 科学・技術と倫理
第6章 科学・技術と教育

[ 問題提起 ]
珍しいものを、何でもかんでも集めまくる博物館という存在があるが、博物学とは、一体、何を目的とした学問なのかなと思うことがある。

ひょっとすると、博物学とは、個人の好奇心や、収集癖を満足させているだけではないかと、も思わないではない。

それは、この博物学が、

「社会的に役に立つ」

という点が、必ずしも、クリアーではないからではないだろうか。

本書によれば、科学という学問が成立したのは、19世紀になってからであり、それ以前の例えば、ニュートンは、科学者とは、呼ばれていなかったという。

即ち、ニュートンの学問は、決して、

「世の中の役に立つ」

ものと思われていた訳ではなく、ニュートン自身、或いは、彼の庇護者達の好奇心なり、探求心を、満足させるものであると、理解されていたからだという。

その意味では、芸術家が作品を制作するのと、科学者が、研究をするのでは、大きな違いはないと、思われていたのだ。

しかし、その後、科学が技術と結び付き

「世の中の役に立つ」

ものと理解されるようになり、科学者自身も、それを意識し、さらには、その成果から報酬を得ようと考えるに至り、科学は大きく変質した。

[ 結論 ]
このような形で、科学と社会とのかかわり、科学におけるモラルの問題といった観点から展開する本書は、現代日本の理科教育の問題点、あるいは、JCOの臨海事故と、「技術立国日本」との因果関係と、幅広く展開する。

クローン人間の誕生を倫理的に許されないとする人々の論理の非合理性に言及しつつ、クローン技術の歯止めのない進展が巻き起こすであろう混乱を分析するといった具合に、科学をとりまく現状に対する問題提起は、実に面白い。

科学万能の世の中であるが、なにもかも、科学、あるいは、科学的考え方にまかせてしまっていいのだろうか。

著者の科学と社会に注ぐ真摯な眼差しが、現代社会の多くの問題に気づかせてくれる。

前置きとして、

「科学とは何か」

について、ベガ的(単細胞生物的)に振り返ってみることにする。

科学は、もともと、

「知的好奇心」

から出発した。

知的好奇心を、自然に対するより深い理解といいかえてもいいであろう。

科学の始まりは、古代ギリシアの自然哲学からとされている。

一方、近代科学は、16世紀のコペルニクス、17世紀のガリレオ、ケプラー、ニュートン等によって幕が開いた。

例えば、物理系にかたよった話で恐縮ではあるが、物体の運動、物質の気体・液体・固体の物理、物質を構成する元素・分子・原子、また熱、電気、磁気、光などの解明が進められた。

こうした研究を行った方々は、その日の生活の糧に、あくせくするような立場ではなかったのではないだろうか。

しかし、研究の結果が、社会に役に立つことがわかって潤ったのは、かなり後期の恵まれた一部の人であったようだ。

うんとはしょって、20世紀になると、放射性物質(放射能)から原子の理解に注意が向けられた。

やがて、ミクロの世界を解明する「量子力学」が誕生し、今日のエレクトロニクス(電子工学)の基礎が作られた。

20世紀以降を、現代物理学、それまでを、古典物理学という。

とにかく、現代物理学は、あきれるほど、むつかしいのが特徴である。

光(電磁波)に関する問題から、古典物理学の帰結として、1905年、特殊相対性理論が生まれた。

アインシュタインは、これを10年かかって一般化し、それは、宇宙(時間・空間)をあつかえる理論となった。

これが、一般相対性理論で、現代の宇宙論とかというのも、そこから始まっている。

さて、人々(社会)は、科学(技術)と、どうつき合ったのであろうか。

20世紀、第一次世界大戦において、科学技術は、戦争の道具・兵器として飛躍的に発展した。

飛行機・戦車・火薬・毒ガスなどである。

ヨーロッパにおいて、近代国家の科学力を動員した総力戦は、悲惨な結果を招いた。

同じことが、愚かにも、第二次世界大戦で起きてしまった。

戦艦・戦闘機・ロケット・通信・レーダー・化学兵器。

そして、究極の破壊兵器・原爆である。

日本は、空襲で、東京をはじめ、多くの都市が焼かれ、広島・長崎の原爆で、戦争の継続を断念したのであった。

世界中で、一千万人を超える犠牲者を出した第ニ次世界大戦により、人々は、

「科学の力を戦争に用いると大変なことになる」

ことを学んだはずだった。

そこで、一旦は、科学の成果を、

「平和的な産業に使おう」

ということになった。

旅客機、鉄道、自動車、ラジオ、テレビ、家電、化学繊維、化学肥料などである。

ところが、交通の道具は、事故を起こし、ラジオ・テレビは、騒音をまき散らし、化学肥料は、土地を荒廃させるに至った。

平和的産業は、同時に騒音・大気汚染・廃棄物といった「公害」をともなっていたのである。

人々が、豊かになるための平和的な産業に使われたはずの科学技術さえも、水俣病など、少なからぬ悲劇を生み出してきた。

無神経な科学の成果を駆使するには、人間が、細心の注意を払わないといけないことを学ぶのにも、長い時間がかかった。

便利さの背後には、思わぬ悲劇が、影を潜めているのであった。

この21世紀、ゲーム機やインターネット・携帯電話などの

「楽しく便利な機器」

が、どのような負の側面を持っているのか、注意しすぎることはないではないだろうか。

例えば、柔軟な思考ができる若者が、貴重な時間をゲームなどで浪費・消耗し、ゲームと現実の見境がつかなくなったら・・・

そこまで行かなくとも、社会共同体の一員としての自覚がなく、社会人としての価値判断や、行動ができないままの若者が、大量に出現したら、どうなるのであろうか。

判断力の幼い子供たちを、インターネットの世界に直面させるのはいかがなもかと、考える余地は、まだまだ、あると考えられる。

価値観を狂わす爆弾の埋まった地雷原を歩ませるようにも思えてならない。

とはいえ、その技術を教えないわけにも行かないのが現実でもある。

パソコンで浮いた時間は、パソコンがらみのトラブルで失われるとも言われている事実を直視すべきであろう。

[ コメント ]
ともあれ、科学と技術の力が、今日の日本の豊かな社会を支えていることはいうまでもない。

文化包丁で、おいしい料理を作ることもできれば、人を殺すこともできる。

より、高度な科学の成果が与えられるにつれ、それを用いる人間の側の力量が試されるのであろう。

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【参考記事】

文部科学省で定められている基本の教科は、以下の10教科です。
■国語
■社会
■算数
■理科
■生活
■音楽
■図画工作
■家庭
■体育
■外国語活動(英語)
外国語活動は、2020年に改訂された学習指導要領から必修になりました。
小学3・4年生では、「外国語活動」、5・6年生では、「英語」の教科として含まれます。
その他の教科・活動として、小学校の授業では、上記の10教科の他に、以下の2種類を編成できるそうです。
■道徳
■特別活動
■総合的な学習の時間

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