「私らしく」とは?についてのちょっとした雑感
誰も「私らしく」生きたいと思っていると想います。
大切に思う人が増えたり、日常が暮らしとして重なるにつれ・・・・・・
自分の中の「あるがまま」という感情は、少しずつ、ほんの少しずつ、徐々に薄められていくような気がします。
私は、”カルピス”が好きなのですが、このカルピスに例えてみると。
それは、ちょうどな濃さのカルピスだったら、美味しいけれど、薄めすぎてしまうと美味しくないし、なんだか物足りないという感じに、どこか似ていますよね(^^)
「ほんとうは、もっと私らしくいたいのに」って思っても・・・・・・
「どうして、思いのままに生きられないのだろう?」って悲しくなることもあったり、なぜか唐突に、そんなことを思ったりします。
でも、よく考えてみると、「私らしく」と思う心は、そこに「誰か」の存在があってこそ、生まれてくるものだと思います。
なるべくなら傷つけあわずに、寄り添って生きていきたいと。
私を思うと同時に、隣にいる誰かを大切に思うから、「私らしさ」への揺れや疑問を感じてしまうのかもしれませんよね。
「〈あげた愛〉〈ほしい愛〉とのバランスを計りかねてるセーの法則」
(田中槐『ギャザー』(1998年)より引用)
「ギャザー―田中槐歌集」田中槐(著)
この句で使っている「セイの法則」は、1803年にフランスの経済学者J-B.セーが発表した「経済概論」で言及された理論をもとに名付けられた経済学説です。
「経済概論」では、「すべての国において、生産者の数が多くなればなるほど、そして生産が増えれば増えるほど、販路はより容易く、多様で広大なものになる。生産が活発なところでは、それ自体でモノが買えるモノが生まれる」と述べられています。
つまり、需要量自体は、供給量に依存しており、販路が広がり生産物の流通量が増えれば、国家の富は増加するとされています。
つまり需要と供給がアンバランスになっても価格調整によって最終的には重要と供給がバランスを保つ、という原則によって、全般的過剰生産を否定するというもの。
慣れていないと、なんとも難しい話ですよね^^;
さて、この歌においては、その経済学的理論を「愛」にあてはめようとするアイロニーが、まず面白いと感じました。
そこで、あげた愛が供給、ほしい愛が需要だと仮定してみる。
愛すれば愛するほどに愛は希求されるということになる事が正しいのか?
否、愛は、求められて注ぐものではなく、自発的に与えたくなるもののはずですよね。
つまり、あげた愛とほしい愛は、全く別の次元で語られるべきものである筈です。
また、愛は、あげたからほしいでもなく、ほしいからあげるものでもない。
しかし、人はしばしば、それを忘れてしまうのか、撰択を誤るのか、どちらにせよ、愛を注ぎすぎたり求めすぎたりして、傷つけあってしまいます^^;
そのため、大切な人と一緒に「私」を生きるのは、実は、とても難しいことだと、私は、想っています。
お互いに、そのときどきで、自分の心に折り合いながら、相手の思いをも汲み取る心がけが必要なのだと、これまで生きてきた中で、そう想ったことが多くありました。
「気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで」
(枡野浩一『てのりくじら』(1997年)より引用)
「てのりくじら―枡野浩一短歌集〈1〉」(枡野浩一短歌集 1) 枡野浩一(著)オカザキ マリ(イラスト)
人はみな、そのカタチや表現方法は違っても、心のどこかに、もっと、もっとと、自分らしさを求める心を抱えていると想います。
日常は、思い通りにならないことがたくさんあるけれど。
「私らしく」の、私を主張したくなったら・・・・・・
同じように、隣にいる大切な人も「自分らしく」と思っていることを。
決して、忘れてはいけない、と。
そんなことを、考えてしまいます。
「もう愛や夢を茶化して笑うほど弱くはないし子供でもない」
(枡野浩一『てのりくじら』(1997年)より引用)
私たちはみんな、強くなろうとする。
大人になろうとする。
それが当たり前と信じて。
一所懸命頑張る。
一所懸命強くなろうとする。
大人になろうとする。
でも、いつになっても強くなれなくて。
大人になれなくて。
弱いから、子供だから、茶化すのではない。
それに、強い大人はどこにもいない。
私たちは、ある日、ふとそのことに気づく。
そして、「私らしく」とは、そんな風にいつも、でこぼこしている自分がいて。
相手もでこぼこしているんだってことに気づく(とは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで)ところからスタートなんだろうなと。
そんな風に考えています。
どうせ、そうなら、金太郎飴のように、どこを切っても、凸凹な私らしくありたいとも思っています(爆)
そうそう、どこを切ってもまんなかに、私らしい凸凹な私が出るようになりたいものですね(^^)
今の自分があるのは誰のせいでもなく、自分のせいでしょ?・・・・・・って(@@)
毎日は、いろんなことが起こります。
笑顔で過ごせるときもあれば、そうじゃないときもあるし。
調子のいいときもあれば、落ち込んでしまうときもある。
でも、どんな自分も、それがそのときの自分だからね!
だからこそ、自分の過去を振り返ったとき。
ε- (´ー`*) フッと笑って。
「私らしいな~、まったく」
なぁ~んて苦笑できれば。
私にとって、その過去に後悔はないと思っています(^^)
自分の道は、まんなかを歩かなくてはだめだよね!
うまくいかないときほど、隅っこを歩くのではなく、隠れてしまうのではなく、まんなかを歩かなければダメ!
いつも、私らしい凸凹な私が、自分の真ん中に在るように心がけたいですね(^^)
ある漢字の心も真ん中にあったっけ(^m^*)v ムフフ
偉そうに言ってますが、私の人生が終わる頃。
五分五分くらには、持って行きたいとは思っています^^;
そんな気持ちを抱きながら、大切な人と寄り添って歩いていけるだけでも、とっても幸せなことだと、思いませんか?
みづき「わたしらしく」
erica「きっといつか、もっと強く、私らしく」
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