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【白雨随感禄】かたちの日本美

Kyon.Jさん撮影

■視点1

「生きることは暮らすこと」(渡辺武信「住まい方の実践 ある建築家の仕事と暮らし」(中公新書))

インテリアと詩歌 ウェブ展示室

公開期間:

2024年6月13日(木)~2025年3月9日(日)

展示テーマ:

代々受け継がれてきた箪笥、1人暮らしのためのベッド、家族の人数に合わせた食卓…私たちはいくつものインテリアに囲まれて暮らしています。

現代では、量販店やネットショップが充実し、気軽に入手できるようになった家具ですが、古代エジプト文明を起源とする歴史の中で、長らく権威の象徴とされてきました。

たとえば、ツタンカーメン王のピラミッドからは、華やかな装飾のほどこされた机、椅子、寝台などの調度品一式が見つかっています。

このことは私たちの根底にある美意識と無関係とはいえないように思われます。

家具はそれぞれの機能性や合理性だけでなく、室内の調和あるいは不調和を目指して選択され配置されます。

そうして作りあげられる極私的な空間は、ときに他者の共感を得、ときに理解を超えるものとなります。

それは、私たちがことばをつむぐ行為、とりわけ詩歌の創作に通ずるようにも思われるのです。

近年、コロナ禍での外出制限、リモートワークなどにより、室内の快適さや利便性が意識されるようになりました。

急激に変化し続ける社会の中で、あらためて「私」を見つめる機会となることを期待し、本展を開催します。


「“快適さ”がどこか後ろめたいのは、それがなにか根本的なものを捨象することによって、はじめて実現したものであるからだ。

快適な個人住宅より、もっと後ろめたいのは、快適なオフィスと言ったような代物である。

快適に働ける空間と言うものはたしかに存在し、その中にいればぼくだってその快適さを実感するのだが、その感覚は、労働の社会的な意味が切り捨てられたところで成立する。

だいたい快適に働くとは、能率よく働かされることに過ぎないのではないか?

別の言い方をすれば、そもそも真の“快適さ”ということが人間に対して拒まれているので、なにかを捨象することによって虚構的な快適さを手に入れる他ない、というのがぼくたちの状況であろう。

いや、それは、いつの時代にもそうであったのかもしれないが、今日の日本ほど、その虚構性があからさまになった時代はない」。(「いま建築に何が問われているか――行為としての〈建築〉の仮象性」 『大きな都市小さな部屋』所収)

「大きな都市小さな部屋」(SD選書)渡辺武信(著)


「詩に対応する現実がない、などと言うことはあり得ない。

詩に、というのがやや曖昧に過ぎるとしたら、詩を書きはじめる契機には必ず対応する現実がある。

私たちが詩のほうへ押しやられ、私のものであり他者のものである一行の言葉に到達しようとするのは、『私』と現実の乖離を感じることによってである。」(渡辺武信「戦後的叙情の飽和 この十年の詩的状況についての走り書」 初出・『現代詩手帖』一九七九年六月号)


「『私』とは、非反省的な意識と世界との間を走る一本の亀裂であり、距離であり、奈落である。

『私』が飢えているのではなく、言葉を呼びこもうとする飢えそのものが、未然の『私』である。

詩は、その『私』であろうとする奈落をサーツとよぎっていく暗い奇跡の軌跡ではないか。」(渡辺武信「詩的快楽の私的報告」 初出『現代詩手帖』一九七四年三月号)


はっぴいえんど時代に、松本隆が作詞のお手本にしたと公言していた日本の詩人、建築家である渡辺武信の詩集。

「風の詩人」の異名通り、都会的で、さわやかな彼の詩の世界が堪能できる。

「渡辺武信詩集 続」(現代詩文庫)渡辺武信(著)

「つややかに輝く家具のカタログやグラビア刷の未来都市の中に

ぼくの記憶の死に場所はない

ぼくたちのつつましい快楽が死者たちのまなざしと

鋭い刃の上でつりあって一瞬静止するみじかいみじかい休暇から

はみだしてしまうぼくたちの長いくちづけ

あわされた唇と唇がつくる内海のやさしいかたち

それがとつぜん凍りついてきみの眼を大きくひらかせる」(「蜜の味」)

「あらゆる恋や行為が

巨大都市の影に埋没していく時

ただ眠りの深さを測るためだけにさえ

きみのまなざしを借りなければならない

眼をひらけ

どのような盲目もゆるされていない

夢のまぶしさの中で眼をひらけ」(「遠い眼ざめ」)


■視点2

日本と西洋の文化の違いの根幹は、

「木の文化」

「石の文化」

の違いにある。

石は半永久的だが、木はやがて朽ちる。

日本人は、そこに

「もののあわれ」

を感じ、自然への審美眼を培ってきた。

21世紀はこうした

「ソフトパワー」

が、経済・軍事力などの

「ハードパワー」

を資源として、しのぐ時代になると説く論者もいた。

平面的描写の絵画。

大胆な余白のある構図。

ぼかしやにじみの表現方法。

シンボル化された家紋のデザイン。

日本人の私にとって、これらの伝統的な日本の様式美は、なじみのあるものである。

だから、今まで格別、不思議には思わなかった。


■視点3

日本人は、むかしから木と付き合いながら生活をしてきた。

木の家に住み、木の家具や食器を使い、下駄を履き、木から作った紙で文書を書いた。

一方で、西洋は、ギリシャ文明以降、石積みや煉瓦の家に住み、テラコッタの瓦やタイルで壁や床を飾った。

木の文化と石の文化の違いである。

そして、木はやがて朽ちる。

石のように、半永久的ではない。

そのような生活環境から、日本人は、脆弱で危なげなものに対する

「もののあわれ」

や自然に対する審美眼が生まれた。

日本のデザインのルーツは、そこにある。

そんな日本と西洋の違いで、いちばん、わかりやすいには、

「いけばな」

「フラワーアレンジメント」

の例えではないだろうか。

フラワーアレンジメントは、花そのものを愛で、その美しさを飾り立ててデコレーションする装飾様式である。

左右対称のシンメトリー型に配置したり、円錐形や二等辺三角形、円形(リース)のような幾何学的なかたちに終始している。

西洋は、対称、定型、黄金比を重視した。

一方、日本のいけばなは、自然のままのかたちの美しさを器に再現しようとした。

自然界に完全なシンメトリーは見られないのと同じで、基本的にシンメトリーの形状や挿し方はしない。

非対称に挿した花枝をバランスよくまとめ、装飾の域を超えた深い精神性を見出そうとした。

これが自然の美を始原としてきた日本人の感性である。

かつて、世界を魅了し、影響を与えた

「ジャポニズム」

という日本ブームがあった。

「ジャポニスムと近代の日本」東田雅博(著)

現在も

「クールジャパン」

と呼ばれるサブカルチャーをはじめとした日本文化がもてはやされている。

この

「ジャパンクール」

と呼ばれるサブカルチャーも、脈々と受け継がれてきた日本独自の和のデザインが形を変えたものだ。

「日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く」(講談社現代新書)松岡正剛(著)

ハーバード大学のジョセフ・ナイ氏は、他国を制する経済・軍事力のことを

「ハードパワー」

と言い、文化やサブカルチャーのことを

「ソフトパワー」

という概念で位置づけた。

「国際紛争 理論と歴史 原書第10版」ジョセフ・S.ナイ ジュニア/デイヴィッド・A. ウェルチ(著)田中明彦/村田晃嗣(訳)

そして、21世紀は、ソフトパワーによって、国の政策として普遍的な価値観を作り上げることの重要性を説いている。

資源貧国である日本にとって、

「文化力」

は、

「ハードパワー」

に勝る永続の力をもった資源であると言えないだろうか。

日本にいると、自国の文化を客観視することは難しい。

けれど、花鳥風月から生まれた先人たちのデザインが、今なお、色あせない魅力を持っていることに気づける感性を持ち続けたい。

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