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【LAWドキュメント72時間】友情と恋愛の哲学


■自負と偏見

「自負と偏見のイギリス文化 J.オースティンの世界」(岩波新書)新井潤美(著)

[ 内容 ]
イギリスではオースティンの作品は出版されて以来、その人気が衰えたことはない。
一九八〇年代からは、その作品が次々に映像化されるとともに、続編や翻案も書かれ、空前の「オースティン・ブーム」が続いている。
イギリス人はなぜオースティンが好きなのか。主要作品を手がかりにイギリス人のユーモア感覚、階級意識、恋愛観を探る。

[ 目次 ]
第1章 オースティンは「お上品」ではない―奢侈と堕落の時代の文学(奢侈と堕落の摂政時代(一八一一~一八二〇) どぎついユーモア)
第2章 パロディから始まる恋愛小説―分別と多感のヒロインたち(同時代の小説の非現実性を笑う ヒーローもヒロインも笑いの対象 「現実的」なヒロイン)
第3章 恋愛と結婚―女性の死活問題(夫を得るための大作戦 独身女性の運命)
第4章 アッパー・ミドル・クラスのこだわり(小説に「現実」を反映させる 階級をめぐるスノビズム)
第5章 オースティンと現代―空前のブームの背景(オースティンの新たな世界 オースティンの「続編」と「翻案」)

[ 問題提起 ]
私は、本著を読むまで小説、映画ともに大ヒットした『ブリジット・ジョーンズの日記』が、

ブリジットジョーンズの日記(2001年)

ブリジットジョーンズの日記 きれそうな私の12ヶ月(2005年)

ブリジットジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期(2016年)

ブリジットジョーンズの日記 サイテー最高な私の今(2025年)

18世紀のイギリスで活躍したジェイン・オースティンの代表作『自負と偏見』の翻案とはついぞ知らなかった。

「自負と偏見」(新潮文庫)ジェイン・オースティン(著)小山太一(翻訳)

見聞の浅さを、日本での知名度の低さだけに求めるわけにはいかないものの、日英のファンの入れ込み方には、歴然とした違いがあるのは確かだ。

『ブリジット・ジョーンズの日記』に限らず、本国のイギリスやアメリカでは1980年代以降、作家や好事家によってオースティン作品の翻案や続編が発表されており、死後200年経ってもなお熱烈な支持を受けているという。

近年では「ジェイン・オースティンの読書会」という映画まで製作されたほどだ。

著者は、日本でいまひとつオースティンの名が通っていないのを、

〈現実に即して、あくまで「日常」を描く手法を「大衆小説的」とみなし、「文学的ではないと批判する」〉

態度に求めている。

〈愚痴とおしゃべりを、皮肉なユーモアで淡々とかわしていく〉

といったストーリーは、人間の実相に迫るような文学然とした風味を好む人にとり、おかしみはあっても抑揚がなく、ふまじめに感じられるようだ。

オースティンも自身を

「まじめになれない人間」

と考えており、

〈自分や他人への笑いを小説というかたちで表現〉

することに意を注いだという。

しかし、笑いに溢れているからといって、大衆的の一言で彼女の小説を評していいものか。

『自負と偏見』のヒロイン、エリザベスのセリフにオースティンの小説観を読み取れそうだ。

「私は思慮深いもの、善良なものを笑ったりはしていないつもりです。愚かなこと、馬鹿げたことはたしかに面白く思いますし、そういう事柄に出会うたびに笑っていますが」

もしオースティンの小説がたんなる笑いに徹するだけの戯作であれば、いっときの人気はあっても、時が移ろえば風化したはずだ。

そうならなかったのは、彼女の紡いだ一見凡庸に見えるストーリーは、イギリスの階級社会を象徴するところがあるからだろう。

本著は、現代にも通底する階級社会の特性や構成員の恋愛、結婚観を読み解こうとするものだ。

[ 結論 ]
オースティンは

〈小説は「現実に忠実」でなければいけない〉

と考えていたという。

彼女を取り巻く

「現実」

がどういうものであったかといえば、時は放蕩と放埒が許されたジョージ四世の在位期。

貴族が愛人を伴って社交界に出入りしても非難されることがなかった。

その後のヴィクトリア朝の禁欲的な社会とは大違いである。

自由奔放な恋愛がまかり通っていた一方、恋愛小説となると

〈美しくて聡明で何ひとつ欠点のないヒロインがあまりにも感受性があるために、何か言うと失神〉

し、恋しても周囲の反対にあえば

〈自己犠牲の精神を発揮して、身をひく〉

ことがよしとされるような、非現実的な世界が描かれていた。

〈このような話を、オースティンは少女時代から「修正」したくてたまらなかった〉

という。

「修正」

という語に、著者がオースティンの鼻息の荒さを買うさまが感じられるが、実際、彼女は小説を14歳でものするなど早熟だった。

オースティンは知らない土地や自身の属さない階級について述べることに控えめであったが、その彼女が

「現実を忠実」

に描こうとしたとき採った手法はパロディであった。

習作である『恋愛と友情』は、当時流行っていた恋愛小説の描く「現実」を忠実に再現することで、その非現実さを笑った。

作中で、ヒロインと友人ソフィアは、それぞれの夫の乗っていた馬車が転覆するのを目撃した。

その場面をオースティンはこう描写する。

「ソファイアは叫び声をあげて気を失って倒れました。

私は大声で叫んで即座に気が狂いました。

私たちはそのまま数分間正気を失い、戻ったと思ったらまた失いました。

この不幸な状態は一時間一五分続きました。

ソファイアは一瞬ごとに気を失い、私も同じ頻度で狂いました」

著者は感受性を軸にしたとき浮かび上がる登場人物の滑稽さが、

「過激な風刺や戯画よりは抑制された、毒ではなく棘のあるユーモア」

「自分を笑うことができる」

といったセンスを好む現代イギリス人のミドル・クラスに受けるのではないかと類推する。

現代でも感受性の豊かさに価値を置く人もいるが、それに鼻面を引き回され、失神とまでいかなくても、自分が疎かになっていることも多い。

新奇なものに飛びつくことを感受性や目利きの鋭さと勘違いしてしまうなど、思い当たる節は誰にでもあるだろう。

だが、パロディに終始しただけでは、同時代の小説の荒唐無稽さを皮肉りしはしても、本歌取りを超えず、現代まで訴求力を持つことはないだろう。

彼女の小説は

〈一見すると、アッパー・ミドル・クラスの男女の恋愛と結婚を扱った他愛のないものに見える〉

が、だからこそ現代でも魅惑的であり、歓迎されるのではないかと私は考える。

特に近年のオースティンの熱烈な読者は、恋愛の手ほどきとして読んでいる人も多いと聞けば、なおのことだ。

たとえば著者の紹介する『ジェイン・オースティンのデート・ガイド』。

若い女性を対象に、

「妥協しないこと──財産のため、都合のため、あるいは寂しいからと言って結婚しないこと」

といった原則をオースティンの小説から導き出した、ある種の実用書だ。

オースティンの生きた時代、女性にとって結婚は他愛のない問題どころか、死活に関わった。

とりわけ彼女の所属していたアッパー・ミドル・クラスにとっては。

著者は階級という要素を絡めたときの当時の恋愛と結婚事情をこう説く。

〈オースティン一家が生活していた場は、上は大地主クラスか、せいぜい准男爵どまりで、ロンドンの社交界で活躍するような貴族階級でも上流階級でもなかった。

(略)

ある意味でかなり可動性があり、上にも下にも行ける階級であるからこそ、その中での自分と他人の地位に敏感になり、結婚相手を選ぶ際にも慎重にならざるをえなかった〉

イギリスのように階級はないが、勝ち組・負け組という触れ幅の小さい経済的階層差がことさら問題になったことを思い出せば、

「他人の地位」

「慎重」

さについて理解するのは、現代の日本でも難しくないだろう。

むろんオースティンは小説の中で、

〈男性を結婚の対象としかみなさず、とにかくよい条件の相手を射止めることに必死になる女性〉

を揶揄するのだが、

〈何らかの方法で夫と家庭を手に入れないと、将来の生活も保障されない〉

女性の存在を知らなかったわけではない。

『自負と偏見』でも、生活のために結婚する女性を描いている。

オースティンは生涯独身だったが、著者が指摘するように、当時の社会においてそれが可能だったのは、父親の遺産と兄弟からの援助があってのことだろう。

しかし、オースティンは姪に宛てた手紙で、

〈愛情がないのに結婚するくらいなら、何をしても、何に耐えてもよいでしょう〉

と綴っている。

小説の中で

「愛さえあれば」

といった考えを

「非現実的」

だと退けているだけに、この手紙の文面からは、彼女の人生に妥協しない信念がうかがえる。

オースティンは恋愛や結婚に関しての正答を示したわけではない。

ただ、目の前の現実に足をとられて、

「何が真に幸福なのか」

を問うこともなく、条件のいい男をゲットしようと右往左往する

〈見栄や虚栄心や愚行〉

を揶揄し、生まれや育ちのよさに胡座をかいた、

〈無作法で良識のない人間〉

を笑った。

著者は

〈自分の姿を笑う余裕があるという「自負」、そして自分が愚かであり、馬鹿げたことだと判断した事柄を容赦なく笑う「偏見」〉

がオースティンの小説の醍醐味であり、イギリス人特有の文化だという。

[ コメント ]
本著では、オースティンの小説を読んだことがなくても、そのおかしさを味わうことができる。

小説世界の一端を垣間見るだけに留まらず、オースティンが小説を書くにあたって心掛けた

「現実に忠実」

とは何かを考えさせられもする。

忠実とは、既存の価値観に自分を委ねることと思われがちだ。

だが、オースティンの小説観に触れると、忠実とは、現実に寄りかからず回避もしない、揶揄の精神を保つ姿勢のことではないかと思えてくるのだ。

【参考資料】

【参考文献】
町田美津子「ジェイン・オースティンのノンセンス--「恋愛と友情」(Love and Friendship)の一考察」
町田美津子「ジェイン・オースティンの「感傷小説」」


■友情を哲学する

「友情を哲学する~七人の哲学者たちの友情観」(光文社新書)戸谷洋志(著)

同書は、古代ギリシアの時代から歴史的に

「友だち」

がいかに変質してきたかを示し、それでもなお現代に成立しうる友情について考えた一冊で、SNSやリモートが当たり前のものになった現代人のためのまったく新しい友情論を描き出しています。

本書では、7人の哲学者たちの友情観が、以下の様に考察されています。

●アリストテレス:友情とは何か

「アリストテレスは、友情を自律的な個人による愛の関係として捉えた。

彼は、善良さに基づく友情を理想とし、そこでは友達が『もう一人の自分』と見なされると説いた」。

●イマヌエル・カント:友達のための嘘は許されるか

「カントもまた、友情を自律的な個人同士の関係として捉えた。

彼にとって自律性とは、自分の欲求に支配されることなく、道徳法則に従うことができる、ということである、そうした自律性に対して人間は尊敬を抱く。

したがって、友情には愛だけではなく尊敬もまた必要である。

彼は人間の自律性を徹底的に洗練させようとした」。

●フリードリッヒ・ニーチェ:友達とわかり合うことができるか

「アリストテレスとカントは、ともに、『私』が友達のことを理解できるということを前提としてきた。

それに対して、この前提を覆したのが、ニーチェである。

彼はとりわけ、同情を友達への愛として捉えることを批判する。

むしろ友情は、友達である二人を超えたものへと二人を導く関係であるべきであり、その理想的な形は、ライバルとの友情である。

・・・彼にとって友情はあくまでも成長のための契機に過ぎない、ということでもある。

そこではたしかに自律が重んじられている。

だが、そうであるがゆえに、友情は二次的・副次的な機能しか演じないのである」。

●シモーヌ・ヴェイユ:見返りのない友情は可能か

「ヴェイユは、ニーチェと同様に、友達が『私』による理解を超えたものであるとしながら、それでも友達を愛することを目指す関係として、『恩寵』としての友情を提示した。

ニーチェが友達との理想的な関係をライバルとしたのに対し、彼女の友情論は、そうした敵を許すという点に、理想的な友情を洞察する」。

●シモーヌ・ド・ボーヴォワール:女性の友情とは何か

「ボーヴォワールの友情論の最大の功績は、女性同士の友情に光を当て、その独自性を描き出した点にあるだろう。

彼女は、現実の世界で抑圧された女性たちにとって、『もう一つの世界』として形成される居場所として、友情の意義を強調した。

友情が自律的な個人の関係と見なされるとき、現実の世界で男性のみが自律性を発揮し、女性からは自律性が奪われている以上、友情は男性的な関係として理解される。

それに対して彼女は、互いの苦境を配慮し、その苦しみを共有し合う関係として、友情を説明した」。

●ミッシェル・フーコー:友情と恋愛の違いは何か

「フーコーは、やはり伝統的な友情観において無視されてきた、同性愛者の友情に光を当てた。

私たちは友情と恋愛をあくまでも区別しようとする。

友情が自律的な個人の関係だとしたら、恋愛は生殖と結びつき、家族を形成する関係性を作り出す。

しかし、このように友情を恋愛から切り離す発想の根底には、生殖力による支配がある。

それに対して、彼は『生存の美学』として、他者との関係性を新たに作り上げていく営みとして、友情を再定義した」。

●アラスデア・マッキンタイア:友達に依存するのは悪いことか

「マッキンタイアは、これもやはり伝統的な友情観において無私されてきた、障碍者との友情に注目した。

彼は、人間をあくまでも傷つきやすい存在として捉え、自律性を他者からのケアへの依存なしには成り立たないものとして説明した。

そして、それが友達の善の『開花』に寄与するものである限り、友達への依存を健全なものとして正当化した」。


■恋愛を哲学する

「恋愛の哲学」戸谷洋志(著)

本書は、プラトン、キルケゴール、ボーヴォワールら人間と世界の関係性を読み解こうとした7人の哲学者の恋愛論を読み解き、

「恋愛とは何か」

「恋愛とはどうあるべきか」

を多角的に考察しており、大学での講義の内容を書籍化したもので、読みやすかった。

【参考資料】


ちょっと横道に逸れると、全ての学問の出発点には、

「数学」

「哲学」

が内在しており、世界を読み解くための

「言語」

「数学」

「言語と数学 コンピュータ・サイエンスのために」 野口宏(著)

で、

「心」

「哲学」

「経験論と心の哲学 プロブレーマタ」(双書プロブレーマタ)W・S・セラーズ(著)中才敏郎(訳)

ではないかと思うのだけれど、みなさんは、どう思われますか?


例えば、小説家・高樹のぶ子さんは、本書の書評で、

「恋愛論(ちくま学芸文庫)竹田青嗣(著)

以下の様に語られていましたね。

「小説で恋愛を描くとき、自分に言い聞かせているのは「考えるな、感じろ」ということ。

けれど考えることが嫌なのではなく、むしろ逆で、考えたくて仕方がないのだ。

ただ、考えると恋愛小説は書けない。

経験的にそう感じる。

「恋愛について考える」ということは、「恋愛を(文学の中にだが)生み出し深める」ことに真っ向から反する。

分析的に眺めたとたん、小説にとって最も大事な恋愛の「熱」は、陽炎(かげろう)のごとく消えてしまうのだ。

というパラドックスを、男性に理解して貰(もら)うのはかなり困難だろう。

これまで女性によって書かれた優れた恋愛小説は数多く存在するが、世界的に特筆すべき恋愛論が見あたらないという、厳然たる事実もある。

男性はそれを女性の論理的思考の弱さだと考えがちだが、それは少し的外れだ。

他のジャンルでは男性以上に鋭く論を展開できる女性はいるけれど、あえて恋愛を論じようとはしない。

封建社会においては仕方なかったにしても現代においても同様。

論では恋愛を掴(つか)まえきれず、後追いにしかならないことを身体的に知っているからだ。

だから小説やエッセイで、個別の恋愛事情を、主観的に提出(表現)する。

俯瞰(ふかん)や分析に背を向けてしまうのだ。

それでも女性は恋愛論を読む。

「恋愛という生命体」を腑分(ふわ)けするメス捌(さば)きに感嘆の声を上げながら、ふむふむなるほどと、過去に恋愛した人も、目下恋愛中の人も、恋愛論の優れた消費者にはなれるのだ。

ただしそれは、慰めや納得や発見には繋(つな)がっても、決して「恋愛」そのものを充実させはしないのだが。

恋愛論とは、そうした宿命を帯びたタスクなのである。」


話を戻すと、本書では、7人の哲学者たちの恋愛観が、以下の様に考察されています。

●なぜ誰かを愛するのか?(プラトン)

①プラトンは恋愛を快楽と欲望に基づくものではなく、狂気に基づくものと捉え、自分自身をコントロールする恋愛のあり方を説いた。

②哲学における恋愛論の先駆けとして、恋愛を永遠性(変わることのない愛)と相互的な関係性(互いに愛し合う関係)によって説明したことが、後世に大きな影響を与えた。

「精神のよりすぐれた部分が、二人を秩序ある生き方へ、知を愛し求める生活へとみちびくことによって、勝利を得たとしよう。その場合まず、この世において彼らが送る生は、幸福な調和に満ちたものとなる。」(プラトン「パイドロス」)

●なぜ恋愛に執着するのか?(デカルト)

①恋愛において「私」が他者を愛するとき、「私」はその他者を「第二の自己」のように感じる。

②自らの欠如を満たしてくれる存在を愛することによって、自分自身が満たされる。

③他者を愛する理由は、その他者に出会う前から「私」のなかに存在する。

「愛好から生ずる欲望のうち最も重要なものは、第二の自己となるうると考えられる人間のうちに思い描かれる数々の完全性から生ずるものである。

・・・自分は一つの全体の半分にすぎず、異性の一人の人間が、他の半分を占めねばならぬかのように思わせる。」(デカルト「情念論」)

●なぜ恋人に愛されたいのか?(ヘーゲル)

①愛されることではじめて、人間は自分がどんな価値を持っているのか理解できる。よって愛は人間関係における「承認」の問題である。

②他者を愛することと、他者から愛されることは等価であり、結婚をその相互承認の到達点と見た。

③現代の恋愛観(いわゆるロマンティック・ラブ)の論理的基礎を作り出したのがヘーゲル。

「愛とは総じて私と他者とが一体であるという意識のことである。

だから愛においては、私は私だけで孤立しているのではなく、私はわたしの自己意識を、私だけの孤立存在を放棄するはたらきとしてのみ獲得するのであり、しかも私の他者との一体性、他者の私との一体性を知るという意味で私を知ることによって、獲得するのである」(ヘーゲル「法の哲学」)

●永遠の愛とは何か?(キルケゴール)

①今この一瞬を重視する愛(美学的な愛)に心を奪われている時は、偶然が織りなす波の中に飲み込まれているだけ。

ゆえに美学的な愛は絶望的なものである。

②しかし絶望を受け入れることによって、偶然に翻弄されない自分であろうとする意志を持つことができる。(永遠の妥当性における自己)

③永遠の愛とは相手にとってよきパートナーであるために、ありたい自分を選択し続ける営みである。

●なぜ愛は挫折するのか?(サルトル)

①サルトルの恋愛論の出発点は、人間は自由であるということ。

それゆえに人間は根本的に不安な存在でする。

②他者に愛されている時は、自由を奪われたとしても、自由の対価としての不安からは解放される。愛は居場所を与えてくれるもの。

③しかしこのような理想を目指す恋愛は必ず挫折する。

「愛とは、本質的に、一つの欺瞞であり、一つの無限指向である。

というのも、『愛する』とは『相手から愛されたいと思うこと』であり、したがってまた『相手が私から愛されたいと思うようになってもらいたいと思うこと』であるからである。

しかも、この欺瞞についての存在論以前的な一つの了解が、愛の衝動そのものの内に、与えられている。」(サルトル「存在と無」)

●女性にとって恋愛とは何か?(ボーヴォワール)

①恋愛は人間の主体性を前提とする。

このことに性別は関係ない。

しかし社会の求める女性らしさ(客体性)は、女性から主体性を奪うものである。

②主体性と客体性の間に葛藤し、苦悩する女性の解決策は、男性から自分の価値を正当化してもらうこと、すなわち愛されること以外になくなる。

③しかしこれでは本当の恋愛とは言えない。

本来の恋愛は愛し合う人間が対等であることが前提だから。

「本来的な恋愛は二人の自由の相互性を認めたうえで築かなければならない。

そうなれば、恋人のどちらもが自分の超越を放棄しないし、自分を損なうこともない。

二人でともに世界に対して価値と目的を明らかにするだろう。

どちらにとっても、恋愛は自分を相手に与えることによる自己の発見であり、世界を豊かにすることであるだろう。」(ボーヴォワール「第二の性」)

●なぜ恋人と分かり合えないのか?(レヴィナス)

①他者を理解し尽くすことができないからこそ、私たちは恋人を求める。

そして分かり合えないからこそ、その人を愛す。

②善いものであれ悪いものであれ、私たちは価値体系を持っているから、この世界で起こる出来事を理解することができる。

しかし価値体系に他者を当てはめることは、他者の無限性を否定することになる。

③他者を理解しようとする欲求と、理解し尽くすことのできない他者と向き合おうとする欲望。

この欲望と欲求が同時に起こることが愛。

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