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【エセー】しょせん自分のお尻の上に座るしかない

朱門さん撮影

本を読んで、

「結局、何も分からないことが分かった!」

って思った時の

「喪失感」

を味わいながら、それでもなお、この調子で、読書を続けていられるのは、例えば、

「なにごとにつけ、わたしには全体などは見えはしないのだ。

全部お見せしましょうなどと、われわれに約束する連中にしてもそんなはずはない。

それぞれの事物が有する百の手足や顔のうちから、ひとつだけを手にして、ただなめたり、軽くさわったり、たまには、骨に届くまでぐっとつかんだりする。

それも、できるだけ広くということではなくて、できるだけ深く突いてみるのだ。

それもたいていは、当てたことのない光によって、そうした部分や表情を捉えてみることが好きなのだ。」(モンテーニュ「エセー」デモクリトスとヘラクレイトスについて)

こんな一節に、挫ける一歩手前で、背中を押してもらえるから(^^)


連想1:ラプラスの悪魔

「すべての事象のひとつひとつは明確な原因によって起こるのだから、正確な計算が可能なら、過去から未来を予測することは簡単だ。

もしそれが計算できないのであれば、人間の知性不足である。」(ラプラス「確率の哲学的試論」)

ラプラスの悪魔。

つまり、自然現象に因果律が存在するためには、

①すべての粒子の初期条件が完全に分かっていること

②粒子間の衝突模様が100%正確に予測できること

が必須条件。


連想2:ハイゼンベルクの不確定性原理

この原理は、2つの値の関係性を測定しようとしたとき、一方の値を、はっきりさせればさせるほど、他方が、それに反比例して、不確実性を増していくというものです。

この原理によって、自然現象の世界において、前述のラプラスの悪魔①の条件が、崩されることになるのですが・・・

この原理の

「測定の不確定性(測定に伴う誤差や運動量の乱れ)」

「量子ゆらぎの不確定性(測定とは関係なく量子が本来的に持っている位置や運動量の揺らぎ)」

の2つの

「不確かさ」

が、きちんと区別されないまま80年にわたり定着。


連想3:小澤の不等式

物理学以外の専門分野においても、

■何か釈然としない思いを抱きながら・・・

■専門家が、こぞって、お墨付きを与えているから・・・

■まさか、間違いはないだろうと、信じていたら・・・

「あらあら、やっぱり・・・」

と、釈然としなかった

「素人目線」

が、意外と正しかったんだねぇ~ということに、しばしば遭遇します。

ハイゼンベルクの不等式は、

「物体の位置を正確に測ろうとすると、測定によって起こる運動量の乱れが大きくなる」

ことを表しているとされていたため、測定誤差がゼロだと、運動量が無限大になるので、そのような測定はできないと考えられてきましたが・・・

1998年夏。

小澤氏が風呂上がりに思いつき、数時間かけて、何十枚もの紙に、数式を書き続けて導き出した後、2003年に発表した不等式は、誤差ゼロの測定が可能であることを示します。


連想4:決定論の浸食

ヨーロッパは長らく、この世は、普遍的な自然法則にしたがっているはずだという、所謂、

「決定論」

に支配されていました。

いつからなのか?

偶然を、

「まぐれ」

のまま放っておけなくなったのは?

「偶然を飼いならす」

「数値と客観性」は、

科学であるための条件、測定とその結果得られる数値の重要性が語られており、

また、

「客観性」

は、科学が自然とどのように接し、どのように描いてきたのか、その人間の認知の変化を扱っているのですが、これらの書籍を通じて世界を見直してみると、印刷を通じて、社会が統計化し、

「決定論」

が浸食され、さらに、偶然が飼いならされていた筈の世界だったにも関わらず、他方では、

「たまたま」

「まぐれ」

を再認識される時代に、何時の間にか舞い戻ってしまったかの様な現代社会。


連想5:しなやかな水のように

「弱さ」

にこそ

「強さ」

の源がある。

「我に三宝あり、持してこれを保つ。

一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰くあえて天下の先とならず。

慈なり、ゆえによく勇なり。(優しくなりなさい、そうすれば勇敢になれる。)

倹なり、ゆえによく広し。(つつましくなりなさい、そうすれば広い心を持てる。)

あえて天下の先とならず、ゆえによく器の長となる。(人の前を行かないようにしなさい、そうすれば人を導く者になれる。)」(「老子」(岩波文庫)より)

自然に人生を投影してみると、なんとなくしっくりくることが多い。


連想6:老子と荘子の世界認識の共通点

「絶対的に正しい!」

そんな判断基準など存在せず。

その時々の関係性で相対的に変化していくもの。

だからこそ、ありのままを受けいれ、しなやかに対応すべし!


連想7:科学的な合理性とは一体何なのか?

“reflexivity”(再帰性・相互作用性)

によって、

「思い描いた未来」

「やがて起きる現実」

との溝が埋まらなくなる。

①初期条件に依存する未来/ポアンカレ「科学と方法」

②科学的な合理性でリスクは測れない/ベック「危険社会」

③リスク管理は破局に無力/ジャン=ピエール・デュピュイ

④合理性の上に成り立つ文明は虚構/木村敏「異常の構造」

「大いなる偶然性・非合理性こそは自然の真相であり、その本性である。

それが人間の眼に見せている規則性や合理性は単なる表面的な仮構にすぎない。

真の自然とはどこまでも奥深いものである。

自然の真の秘密は私たちの頭脳でははかり知ることができない。

そのような自然を人間は科学の手によって支配しようと企てたのである。

そして、自然の上に合理性の網の日をはりめぐらせて、一応の安心惑を抱いて、その上に文明という虚構を築きあげたのである。」(P15)


連想8:時の余白に

「現代の社会には、勝つことの価値が異常に肥大化した一面があります。

・・・世は骨の髄までコマーシャリズムが浸透して「名」と「肩書」が絶大な力を持つ構造ができあがっています。」(芥川喜好「時の余白に 続々」より)

例えば、味付けの濃い料理は、その場限りの美味しさにすぎず。

少し味付けを控えれば、後をひく味わいとなる。

料理も人生も、味付け方次第。

現実と想像とのバランスを取ることが必要であり、想像力のないところに、優しさや愛は存在しないのかもしれない。

そういえば、

「雪月花」

は古来からの日本の美意識。

雪そのものの美を見出すのは、平安末期から。

そして、

「さむしろに 夜はの衣手 さえさえて

初雪白し 岡の辺の松」(式子内親王「新古今和歌集」より)

「この頃は 花ももみぢも 枝になし

しばししな消え 松の白雪」(後鳥羽院「新古今和歌集」より)

の和歌の様に、

「白」

の美しさの発見は、やがて、

「余白の美」

へと、繋がっていったのかもしれませんね。


連想9:日本の色

日本の伝統色を眺めていると、グレーゾーンの領域に、色の種類がとても豊富です。

これは、

「あいまい」

さではなくて、

「間」

を大事にする日本の心と言えるかもしれませんね。

色が重なり、深まることに、美しさを見出した紫式部。

色を重ねると、濁ると感じたのが、清少納言。

「色という文字は、最初は男女の交わりを意味し、そこから生ずる感情の世界、さらには美しいもの一般へと意味が展開し、やがて美しいものが五色の色鮮やかさというようにさまざまの色に分化していった。」(大岡信「日本の色」より)

日本人は、

「自然の色」

を重視してきたので、

「色は移ろうもの」

であり、時間の流れの中のものであるという認識が、基本なのではないでしょうか。

だとしたら、これに倣って、無理に白黒つけようと、かんばりすぎない、って考えも大切です。

■参考記事


連想10:金いろの雲

収められているエッセイと題材は、次のとおりです。

眼下の眺め(洛中洛外図と狩野永徳さん)
本阿弥系図(本阿弥光悦さん)
琵琶湖の鮒(伊勢貞親さん)
カラスとサギ(一条兼良さん)
小京都(一条教房さん)
悪女伝(日野富子さん)
ナマズ考(如拙さん)
古沼抄(三好長慶さんと連歌)
利休好み(南坊宗啓さんと南坊録偽書説)
まま子の問題(吉田光由さんと塵劫記)
陵王の曲(斎藤妙椿さん)
曲玉転々(小川弘光さんと赤松家再興)
石山怪談(石山退去録の盛りっぷり)
舞の本(織田信長さんと幸若舞)
金銭記(佐藤信淵さんと清良記等)
赤ん坊屋敷(長谷川平蔵と石川島人足寄場)
非人志願(車善七さん)
金いろの雲(再び洛中洛外図と狩野永徳さん)

花田氏は、本書の「金いろの雲」という文章の中で、大変興味深い指摘をなされています。

「思うに、『洛中洛外図』が、風景画としてではなく、風俗画として――「四季図」、「年中行事図」、「職人図」等々の総合として、稀にみる成功をおさめたのは、この金いろの雲を、画面のなかで、たくみに使用したためではなかろうか。

山水画のなかの描かれないまま、残されている空白の部分は、かえって、その風景によって、変れば変るほど変らないもののすがたを――永遠なるもの、無限なるものを暗示する。

しかるに、その余白の部分を、あますところなくビッシリと埋めつくした『洛中洛外図』における金いろの雲は、一見、下界のさまざまな風俗の展望をさまたげているように見えながら、逆にそれらのものにむかって、われわれの視線をひきつけるのである。

山水画は、遠心的に、そこからわれわれの永遠なるものや無限なるものを目ざして飛翔させ、風俗画は、金いろの雲のおかげで、求心的に、そこにむかって、絶えずうごいてやまないもののすがたを求めて、われわれを降下させるともいえよう。」

■参考記事
変わらず変化すること-『日本のルネッサンス人』考


連想11:冬の夜空への想い

10世紀から13世紀かけての和歌の主題は、徐々に、

「春」

から

「秋」

へと移り変わり・・・


「花鳥風月」

に、

「寂しさ」

「冷たさ」

の感覚が宿りはじめます。


それにともない、冬への関心が、しだいに増していく・・・


「矛盾」

「不連続」

に満ちたこの世界では、ものごとの、ほんの一部しか理解することはできない。


「われわれは、自分自身のありようをいかに使いこなすのかわからないから、他の存在を探し求めるのだし、自分の内側を知らないために、自分の外側に出ようとする。

でも、そうした竹馬に乗ってもどうにもならない。

竹馬に乗ったとて、どっちみち自分の足で歩かなければいけないではないか。

いや、世界でいちばん高い玉座の上にあがったとしても、われわれはやはり、自分のお尻の上に座るしかない。」(モンテーニュ「エセー」経験について)


世の中のすべてを理解することができないのなら(^^;

その時々の興味に応じて・・・

いろんな分野に没頭してみる。


今宵は、こんな本を片手に持って、冬の夜空でも、眺めてみるかな(^^♪

「星戀」(中公文庫)野尻抱影(随筆)山口誓子(俳句)

「野尻抱影 星は周る」(STANDARD BOOKS)野尻抱影(著)

「稲垣足穂 飛行機の黄昏」(STANDARD BOOKS)稲垣足穂(著)


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