【個性的な作曲家がいっぱい】ピアノが弾けなかった作曲家
作曲家たちは、どんなふうにして、曲を書くのだろうかと言えば、大抵の人が想像するのは、ピアノに向っている彼らの姿ではないかと思われます。
五線紙を前に、少しずつ考えては、鍵盤に手をやって、音を出す。
ポツンポツンと音を確かめては、その都度、書き込んでいる。
そんな様子が、まず、浮かんできますが、当然、ピアノが弾け、その腕前も、かなりのものと思うに違いないのではないでhそうか。
とりわけ、現在のように、作曲と演奏とが分業になっていなかった19世紀までの作曲家については、その感が強いだろと思います、
ところが、実は、ピアノが弾けなかった大作曲家という方々も、いらっしゃいます。
その一人は、
「幻想交響曲」
ベルリオーズ「幻想交響曲 Op.14 サバトの夜の夢(ワルプルギズの夜の夢)」
ベルリオーズ「幻想交響曲 Op.14 夢想と情熱」
ベルリオーズ「幻想交響曲 Op.14 舞踏会」
ベルリオーズ「幻想交響曲 Op.14 断頭台への行進」
で、世界的な、あのE・ベルリオーズです。
フランス束南部の田舎町ラーコートーサンタンドレに生まれた彼は、父親が医者だったせいもあって、幼い頃には、ピアノなどには、まったく無縁。
楽器と言えば、父親の机の引出しにあった、フラジオレット(フルートの一種)ぐらいしかなかったといいます。
やがて、その音楽的才能に気づいた父親が、専門の教師につけさせた時も、マスターしたのは、フルート、ギター、ドラムなど。
パリヘ出て、作曲家として成功してからも、だから、ピアノは、和音を確かめる程度にしか使わず、生涯にわたって、彼は、ピアノ演奏とは、無縁に終わったと伝えられています。
しかし、その分、彼の頭の中には、いつも、大オーケストラの色彩的な響きが鳴りわたっていたそうです。
オーケストラの使い方では、多くの作曲家たちが、影響を受けることになりました、
あの「幻想交響曲」等の名作は、ほとんど、そうした頭の中から生み出されたものなのです。
もう一人は、オペラの大家R・ワーグナー。
ワーグナー「歌劇「ローエングリン」エルザの大聖堂への行進(行列/入場)」
ワーグナー「歌劇「タンホイザー」大行進曲」
ワーグナー「楽劇「ワルキューレ」ワルキューレの騎行」
といっても 彼の場合は、まったく演奏できないのではなく、自己流の勉強により、自己流には、弾いたそうです。
ライプツイヒ生まれの彼の場合は、生まれて間もなく、父親に死なれ、再婚した母親の相手が、俳優だったことから、芝居とピアノに興味をもったといいます。
後の彼を考えると、何やら、象徴的なスタートですね。
その父親が、ウェーバーと親しかったことで、「魔弾の射手」が、
ウェーバー「歌劇「魔弾の射手」序曲」
音楽開眼となり、全曲を丸暗記したり、自己流に、ピアノに移しかえたりしたのが、11歳頃。
才能ありと認められて、専門の教師に師事することになったものの、自己流による、勝手な癖がついてしまっていて、元へ戻れない。
嫌気がさした彼は、ここで、演奏することを、まったく諦めてしまうのです。
作曲のほうは順調に進んだものの、ピアノは、自己流のまま、ついに、正式に、演奏することはできなかったといいます。
意外な感じがするのは、バロック時代の巨匠G・P・テレマンです。
テレマン「無伴奏ヴァイオリンのための12の幻想曲 第5番」
テレマン「リコーダー協奏曲 ハ長調 TWV 51:C1 第4楽章」
テレマン「ヴィオラ協奏曲 ト長調 TWV 51:G9 第1楽章」
バッハ、ヘンデルと同時代に活躍し、当時の人気は、ナンバー・ワンだったといわれる作曲家。
作品の数が多いことでも、古今の第一位。
二人の作品を合わせても、それ以上だったといわれる数千曲。
オペラ、オラトリオから、器楽、管弦楽曲、声楽曲迄、ともかく、驚くほど、精力的に作曲を行なった人として知られているのですが、実は、作曲も演奏も、すべて、独学。
自己流だったといわれています。
チェンバロ(ピアノの前身にあたる)は、面倒と感じて、やめてしまったのだとか。
しかし、数多い彼のチェンバロ曲から、そんな事情を想像するのは、まったく不可能です。
作曲家たるもの、必ずしも、演奏できなくてもよいのかもしれませんね。
モーツァルトは、人生の垢を、旅に費やしました。
見聞を広げるためにも、可愛い子には、旅をさせよなんて言葉がありますが、型にはまった日常からの脱出ですよね。
旅は、確かに、色々な面で、私たちを刺激し、成長を促してくれる点で、魅力が大きいと思います。
しかし、だからといって、終始、旅に出ているのは、どうかなと思うのですが。
あちこちと、渡り歩くことのほうが、多いとしたら、これは、ジプシーやヒッピーと同じです。
若いうちは、いいとしても、年令をとってからは、困ることも、あったのではないでしょうか。
そんな放浪に似た旅を、何と、6歳の頃の、まだ、肉体的にも、未熟な頃から、25歳の青年期迄、、延々、1年以上にも渡って続けた作曲家。
もしかすると、それがもとで、早死したのかもしれない、といわれているのは、ご存知オーストリアの作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです。
作曲家の旅好きは、特に、隕ったわけではなく、メンデルスゾーンやリスト、ワーグナー、サン・サーンスらも同じでした。
あちこちと、旅に出ては、その都度、名曲を生み出しているのですが、それにしても、6歳頃から、ずっと、というのは、極端です。
現在のように、あれこれと、交通機関が発達して いたのならともかく、当時の旅というのは、ほとんど、馬車です。
道路事情も悪かった筈で、 ガタゴトと尻を痛めながらの旅が、幼いモーツァルトの身体に、どれほどの影響を与えたか。
これは想像するだけで、胸が痛みます。
ちなみに、彼の旅というのを、概観してみると、最初が、1762年1月から3週間ほどのミュンヘン行き。
選帝侯マクシミリアン3世の前で、ピアノ演奏をして、褒められたのがきっかけとなり、嬉しくなった父親が、以後、あちこちと、連れ回すことになるのでした。
同じ年の9月からは、3ヵ月半ほど、ウィーンへ行きます。
この時には、女帝マリア・テレジアにキスしてもらったり、転んだのを助け起こしてくれた皇女マリア(のちのマリー・アントワネット)に「大きくなったら、結婚してあげる」と、言ったりしたそうです。
1763年(7歳)6月からは、約3年半をかけてパリ、ロンドン、アムステルダムへ。
このときには、最初の交響曲を書く一方、チフスにかかったりしたそうです。
1767年9月から1年4ヵ月ほどは、一家でウィーンへ。
このときにも、天然痘にかかって、散々な目にあったそうです。
そして、1769年から1773年3月にかけては、3回に分けてのイタリアへの旅。
バチカンのシスティナ礼拝堂で、門外不出のアレグリ作曲「ミゼレーレ」を暗記し、後で、正確に、書き直して、人々を驚かせたのは、このときです。
1773年から75年には、ウィーン、ミュンヘン。
21歳の1777年9月には、母親とマンハイム、パリヘ。
しかし、ここで、翌年の7月に母親が急死。
同じ頃、プロポーズした女性(のちに妻となるコンスタンツェの姉アロイジア)にも振られて、失意のモーツァルト。
1778年11月に、再びミュンヘンへ旅立つのですが、ここで、日頃から、しっくりいかなかったザルツブルクの大司教に、ウィーンに呼びつけられ、喧嘩別れとなって、遂に独立(25歳)することになるのでした。
旅の合計期間は、1年と2カ月。
35歳の生涯からすると、人生の3分の1を旅に費やした計算になります。
いや、もの心ついてからは、ほとんどが、旅の中にあった。
旅そのものが、人生だった、と言ってよい人生でした。
こんな作曲家も、いるのがクラシック音楽の世界なんです。
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