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【小品文】いつもは通らない道を探検

齋藤朱門さん撮影

「なぜ意識があるか」

は、神経科学最大の謎の一つです。

その謎が、

「夢がもとになって現実の意識が生まれた」

という仮説は、文字通り夢のある仮説ですね(^^)


夢を叶えるためには、それも、大人と呼ばれる年代になってからの場合、どうしても、リスクを背負わなくれはなりません。

そのリスクとは、たいてい、安定を捨てる、ということです。

それは、いつも、天秤の片方のお皿に載って、決心を揺るがせるのです。


ヒトの脳にとって効率的な学習方法は、

「困難学習」

「地形学習」

「交互学習」

の3つだとの指摘があります。

これらの性質から、お気づきの通り、苦労したほうが、学習効果は高いことが解ります。


それに、夢は、必ず叶うものとは限りません。

どうしても叶えたい夢があって、今のすべてを捨てて、努力して、頑張ったけど、駄目だったということもあるのです。

それでも、後悔はしないという自信はあるでしょうか。


私たちは、脳内の信号に、

「注釈(アノテーション)」

をつけることで、世界を再構成しています。

その繰り返しの先に、

「世界」

が、そして、

「私」

が、生まれていきます。


もしかしたら、そんな時、周りから、

「ほらみたことか」

と、言われるかもしれない。

それでも、平気でいられるでしょうか。

そんなことを考え始めると、やっぱり夢はみるだけにして、無謀なことは考えないでおこう、と思ってしまうこともあるでしょう。


確かに、夢と現実の違いは、一見すると自明に映ります。

しかし、よくよく考えてみると・・・

いま見ているものが、

「夢ではない」

と証明するのは、それほど簡単ではありません。


確かに夢は叶えるもの。

叶ってこそ、すべてを捨てた、必死に頑張った甲斐がるもの。

だから、叶えられない可能性が大きいなら、早まったことはしないこと。

確かにそうなのだろうけど。


視点を変えれば、

「そういうものに私はなりたい」

と宮沢賢治は願ったけど、ヒトがそうなるのは大変です。

人類誕生以前から風雨に耐え、くよくよ悩まず、怒らずに生きてきた樹木は、この賢治の理想に近いと言えます。

それではなぜ、樹木など脳のない生物だけが存在した時代の後に、神経細胞だけで860億個くらいあるとされる複雑な脳を持つヒトは誕生したのか・・・


でも、夢を叶えられなからといって、失敗だとも限らないと思うのです。

夢は叶うことではなく、叶えようとする意志の中に価値が存在するのだから。

叶えたい、と真摯に歩み続ける、その過程にこそ、意義があるのだから。

こんな青臭い言い方をしてしまい、ちょっと照れ臭いです。


その思いを、脳は瞬時に判断して、受け取ってくれます。

人は、過去の記憶から推測し、

「思い込み」

で判断するクセがあるからです。


また、人は、

「推測する」

ことで、思考の負荷を軽減し、多様な現実に気楽に向き合える様に設計されています。


ビッグデータ処理に 莫大ばくだいな電力料金がかかるAIに比べて、はるかにエコな存在なんですね。

さらに、脳には、推測が外れたら、原因を知ろうとする

「好奇心」

と、新たな事象に対応する

「可塑性」

まで有しているので、その点を意識しておきたいですね。


でも、考えれば考えるほど、やっぱりそう思えてなりません。

その証拠に、夢を叶えてしまった人より、叶えようとしている人の方が、絶対にいい顔をしていると思いませんか。


認知力等に限界のある人間は、脳というフィルターを通して、わかる(わかる/判る/解る)ことしか理解できず・・・

脳という内なる自然も、ヒトには、容易にわかるものではないらしいのですが・・・

それでも、身の程をわきまえず、

「脳力」

に自信満々の人は、諦めずに頑張るから成長するという事実。


人は、生きている中で、いい顔をどれだけ多く過ごせるか、それで決まるような気がするのです。

そう、見知らぬ風景の中に、新たな出会いが待っているかもしれないから(^^)


「最初にこの言葉(夢を叶えるために脳はある)を見て感じた印象と、いま見て覚える印象はまったく違うだろう。

この標語は「将来の夢を抱き、それを実現させる」という血気盛んな精神論を説いているわけではない。

ピピピ信号から仮想世界が生じる。

仮想世界とは、つまり「夢」のことだね。

そんな虚構を脳はでっち上げている。

現実とは、夢そのものだ。

そんな「私」という体験の不思議さ、滑稽さ、そして崇高さを、この標語は言わんとしている。

(中略)

ヒトは、自分、つまり脳のつくったストーリーにどっぷり浸っている。

物語に没頭している。

ふと気づけば、そのストーリーに踊らされている。

いや、厳密に言えば、その事実に気づかない。

自作自演の映画を自分で鑑賞している、という状況を忘れているわけだ。

いや、これも正確な表現ではない。

決して「忘れている」わけではない。

それが自作自演の映画であることを、そもそも知らされていない状況だから、忘れる以前の問題だ。

成長の過程で、注釈に注釈を重ね、ストーリーをつくってきた。

そのSF映画を自分でつくったのに、それに気づかず、映画に没頭している。

自分でつくったということはおろか、いま「現実」という映画を見ている、という事実にすら気づかない。

「実感」や「現実感」などと呼ばれる、珍妙な感覚にいつも囚われているからね。

陶酔しきっているのに、陶酔していること自体を失念している状態。

それが「私」だ。

何とも痛々しく、そして、いじらしい。」(「夢を叶えるために脳はある」P543~)


キアヌ・リーブス主演「マトリックス」


多くの瞑想者は、自分がかつて見ていた世界は、現実を激しく歪めた虚像であり、瞑想によって(赤い薬を飲むことによって)、はじめて、物事が明晰にみえるようになったと感じているそうだ。

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