今の世の中に必要な愛(メロドラマ)がここに
黒田明臣さん撮影
リヒャルト・シュトラウス会心の傑作であるメロドラマ「イノック・アーデン」。
ピアノ音楽のついた朗読劇です。
「イノック・アーデン」は、19世紀英国ヴィクトリア朝の詩人アルフレッド・テニスンが、1864年に発表した物語詩。
「イノック・アーデン」(岩波文庫)テニスン(著)入江直祐(訳)
男は、ロマンを追う。
対して、女は、現実的だ。
愛する妻子のため、遠い異国へ出稼ぎに行った船乗りのイノック・アーデンは、帰路に難破して長い漂流生活を経たのち、ようやく故郷にたどり着きます。
しかし、妻は、すでに幼なじみの友人と再婚して幸せな家庭を築いていました。
それを見たイノックは、身を引く決意を固め、彼らには、帰還を知らせないまま死んでいきます。
同詩内、第12節のイノックの信仰心と勇気に心打たれます。
「それから信心深いイノックは
その場にひざまずき、頭をたれて祈りました。
たとえこの身はどうなろうとも
我が妻と子の上には幸いあれ、と。
「アニーよ、俺の神様をどうか信じておくれ。
この航海は俺たちに幸運をもたらしてくれるはず。
炉を清め、火を明るく焚いて、待っていてくれ。
おまえが考えているのよりずっと早く
俺は帰ってくるからな」
(テニスン著/原田宗典訳「イノック・アーデン」(岩波書店)P21より)
「だが、勇敢で信心深いイノックは、床に跪いて頭を垂れ、
「人間の心の中の神性と、神の中の人間性がひとつになる」
という神秘的な教えを信じて、たとえ我が身はどうなろうとも、
どうか妻と子どもたちには神の祝福がありますようにと祈った。
それから彼はこう言った、
「アニー、神の恩寵によるこの航海は、
我が家に幸運をもたらすだろう。
炉を清め、赤々と火を燃やし、私を待っていてくれ、
愛しい妻よ、お前が知るよりも早く、私は帰ってくるのだから」
(テニスン著/道下匡子訳「イノック・アーデン」(愛育社)P17より)
この幼なじみ3人の愛と友情を描いたこの物語を、リヒャルト・シュトラウスは、ピアノによる背景描写や心理表現に乗せて、セリフを朗誦するというメロドラマの形で音楽化しました。
歌曲やオペラとも違い、むしろ演劇に近い独特の魅力がある作品です。
人々が、それは真実だと信じていても。
実は、幻であり、虚構であった世界での船旅でした。
18世紀の、産業革命最中の英国でのある一人の女性と二人の男性にまつわる話ですが、それを「人のため」と信じて行動していても、幻の世界では紆余曲折、山あり谷あり、様々起きてしまいます^^;
ポジ、ネガを反転させて考えてみるのが良いかもしれませんね。
真実だと思われている世界が、嘘に塗り固められており、人間には見えない、時に、嘘だと思れている世にこそ真実があるというように。
この作品は、1897年、舞台俳優エルンスト・フォン・ポッサルトの求めに応じて書かれたもので、ポッサルトの朗読と、リヒャルト・シュトラウスのピアノ伴奏により各地で披露され、好評を得たそうです。
芳醇でロマンティシズム溢れる19世紀末の時の流れが織り成す魂の揺さぶりであるこの作品を、グレン・グールド15枚目のアルバムとして世に出しました。
前述の通り、ピアノと朗読によるメロドラマという、およそ売れそうもない地味な作品です。
実際に売れた枚数は、LPレコード2,000枚ほどだったそうです。
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのグールドにとっては、異例の少なさといえます。
しかし、天才グールドが、利益を度外視して臨んだ本曲の魅力は、侮れません。
R.シュトラウス「イノック・アーデン」グレン・グールド (アーティスト)
R.シュトラウス「イノック・アーデン」グレン・グールド&石丸幹二 (アーティスト)
かつて美輪明宏さんが「今の世の中に必要なのは愛(メロドラマ)よ」と語った、その言葉が肌で感じられる名作です(^^)
【参考資料】