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会いたい人を思い浮かべて。
失われたものよりも、今在るものが全てです。
離れたくない人がいる、離したくない人がいる。
もし、今日が最後の日で会えなくなってしまうとしたら、その人に何と言いますか?
やり残した事や不満をぶつけてしまうだろうか?
自分の存在をわかってもらおうと、必死になるのだろうか?
ただただ、嘆き悲しんで、涙に沈み込んでしまうのだろうか?
それとも、「ありがとう、愛しているよ。」とちゃんと伝えることができるのだろうか?
「出会いとは生きる力をもらうことなんだ」、「別れとはそれをわかることなんだ」って誰かが言っていました。
もしそうなら、ちゃんと伝えなくちゃ(^^)
自分が生きていることは、あなたから力をもらったからだと伝えなくちゃ、何のために生きてきたかがわからなくなってしまう前に、ね。
生きる力が失われていきそうで、これからどうやって生きていけばいいかわからなくて、カラッポになってしまいそうな自分が恐くて、その人にいつまでもしがみついていたいと思うのかもしれません。
でも、本当はわかっているはず、その人にとっても自分が“生きる力”であったことを・・・・・・
だから、悲しさはいつだって、そこに温もりが在ったから。
失われてしまったとしても、そこに在ったことは忘れないと思います。
それが自分の心にちゃんと残っていることに気付いたとき、失われたものに、ちゃんと「さよなら」を言えるのかもしれませんね。
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の中に「部分的にとても不幸な人は、全体としての人生を祝福できるのだろうか?もし、自分の不幸さを総体として祝福できる人生であるならば、その人はきっと幸福なのだろう。」と書いてありました。
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自分に今在るものを思い出すことができれば、今までも、これからも、失われていくものも含めて、祝福できるのではないかと思います。
例えば、チョコレートを一枚持っていて、半分を大好きな人にあげると、その半分は何倍もおいしくなるでしょ(^^)
思い出は分ち合えばいい、そして、その思い出を何倍もすばらしいものにするかは、きっと感謝の気持ちをコトバにした、さりげない一言なのでしょうね(^^)
大切な人、逢いたい人、離したくない人、待っていてくれる人がいるのは、それが生きる力であるから。
それは、自分という存在が生きているからわかること。
とても難しいことなのかもしれない。
でも、自分から失われてしまうものに「ありがとう」と言えたのだとしたら、それこそが“生きる力”になると思いませんか?
名前の数だけウインクすると、その人に会えるかも♪しれないなぁ(^^)