
【霞始靆随感禄】観察するとは自分自身を体験すること

「観察」
は、小学校で、とても、よく出てくる言葉です。
特に、
「理科」
の授業では、
「観察」
という言葉が、よく登場します。
「観察」
することを通して、
「理科」
の勉強が行われることが、多いからです。
元々、
「観察」
は、仏教の教えで用いられる言葉で、
「知恵によって対象となるものを正しく見極めること」
です。
現在では、
「物事をよく見て観察すること」
「物事のありのままの現象を注意深く見極め、客観的な知恵を得ること」
という意味になりました。
これは、かつて、仏教用語として用いられていた言葉が、明治時代以降、科学的な学問の方法が西洋から紹介され、学校で
「観察」
という新しい学び方が用いられるようになり、仏教用語である
「観察」
という言葉があてはめられたということです。
現在の小学校で用いられる
「観察」
の意味は、
「よく見て、他と比べて違いを見極める」
という意味でとらえられています。
小学校で教えられる意味と、一般で、とらえられている意味とが、異なる言葉もあるため注意が必要です。
昔の理科の実験で習ったことだけど、私たちは、何かを観察するときに、果たして、それが出来ているのかどうか?
例えば、コップの水が
「増えた」
「減った」
は、現象を客観的に表していますが、
「増えてしまった」
「減ってしまった」
のような表現に変わることもあったりします。
減らしたかったり。
現状維持したかったり。
増やしたかったり。
「求めていること」
や、
「過去の経験」
や
「思考のルーティン」
で、現象に対して
「評価や感情」
を伴った判断が加わってきます。
「感情や判断」
は、一旦、脇に置いておかなければ、
「客観的に観察しているとは言えないのではないか?」
とも言えるし、時に、
「比較や判断」
に捉われすぎると、
「本当のことを曇らせてはいないか?」
注意しておく必要があります。
だからこそ、評価に伴ってくる感情や判断も含め、
「気づくこと」
が
「観察する」
と、言うことではないだろうかと思われます。
なぜならば、
「良し悪し」
や、
「出来た出来なかった」
として、なぜ、そう思うのか、そう感じたのか、等々、気がつかなければ、脇に置くことはできないからです。
浄化されていない感情。
統合されていない感情。
それらを眠らせたままにしておくと、心に、澱が溜まっていくことになりかねません。
時折、それを取り出して、掃除しておかないと・・・
心は、たぶん、上手く・動作しないのではないでしょうか。
私は、いったい、何に、反応しているのか?
何が、自分に、起こっているのか?
そして、どうしたいのか?
「気づいたこと」
に対して、
「批判」
や
「ジャッジ」
をせず、ただただ、
「観察する」
こと。
それは、すなわち、
「自分自身を知る」
ということです。
「判断」
しているうちは、まだ、それを、超えようとしていないということと考えられます。
また、
「判断」
しているうちは、
「善悪の判断」
を保留にする
「判断保留の法則」
を指す可能性があります。
「判断保留の法則」
とは、
「善悪の判断」
を保留にして、
「事実を事実として眺める」
ことです。
例えば、芸能人が不倫したという報道を見聞きしたときに、
「推しが不倫してガッカリした。最悪」
と判断するのではなく、その判断を保留にすることを指します。
「判断保留の法則」
を行うことで、やがて
「なぜ彼/彼女は不倫したのだろう」
という問いが生まれます。
思想家のケン・ウィルバーがビッグスリーと述べる
「真・善・美」
という判断基準があります。
「万物の歴史〈新装版〉」ケン・ウィルバー(著)大野純一(訳)

「真」
とは、
「真実」
や
「真理」
を指し、
「合理的な判断基準」
を意味します。
「善」
は、
「私たちが何を大切にしているか?」
による集団の判断基準です。
「美」
は、
「私は何が良いか?」
という個人の判断基準です。
もちろん、判断基準を幅広く見れば
「真」
も
「善」も大切です。
しかし、そればかり
「偏重」
して、
「美」
による判断をスルーしていると、
「私は何がしたいのか?」
「私の豊かさ・幸せは何だろうか?」
がわからなくなっていきます。
心で感じて決めるべきことを、
「真」
でねじ伏せようとすると、混迷は、深まるばかりです。
自分の人生において、もっと
「美」
という
「自分の感情規準」
で、選んでいいことは、たくさんあります。
自分の
「感情基準」
を、明確にするためには、
「自分への質問」
が有効です。
まずは、シンプルに、
「それは、放電(気分を下げること)か? 充電(気分を上げること)か?」
と、自分に問いかけ、どういう感情が、湧き起こるかを感じ分けてみてください。
それをさらに深めていく質問を、7つ紹介しておきます。
▶感情基準で決められる「7つの質問」
質問1:「好きか、嫌いか?」
質問2:「やりたいことか、すべきことか?」
質問3:「乗るか、乗らないか?」
質問4:「楽しいか、つらいか?」
質問5:「ワクワクするか、しないか?」
質問6:「自分に合っているか、合っていないか?」
質問7:「心の底から深く求めていることか?」
この質問を通じて、自分を、
「観察する」
とは、
「眠っている自分」
に気づき、
「認知していなかった自分自身」
を、
「体験する」
ことだと考えられます。