食卓に添えた春色のお花。
気持ちは既に春!?
言葉の表現って難しいですよねぇ^^;
うまく伝えようとしても、誤解が生じるとき、あなたが誠意を持って、話しているのなら、あなたが悪いのではなく、相手のタイミングが違うだけかもしれません。
あまり落ち込まないで、時間を置くことが必要だと思います。
だけど、時間を置いても、やはり誤解が生じるのなら、少し違った角度で、もう一度見直す必要があると思います。
物事は、1つの角度で見るだけでは足りない場合が多いから・・・・・・
色んな角度で見、自分の心で感じることが大切だと思います。
例えば、食卓に添えた春色の花から、ハートで感じる一足早い春の足音が聴こえてきたりしませんか?(^^)
小林秀雄が茂木健一郎の「脳と仮想」の中で以下の通り述べていました。
「脳と仮想」(新潮文庫)茂木健一郎(著)
「経験科学ということを言うでしょ。
経験ということは、人間、昔から、誰でもしていることで、その経験についていろいろ研究したり何かすることは昔から誰でもやっているんです。
だけどこの人間の経験なるものをだね、科学的経験って言うものに置き換えたって言うことは、この300年来のことなんです。そのために今日の科学は非常に大きな発達をしたんですけどね。
・・・・・・科学っていうものは、経験というものを、計量できる経験だけに絞ったんです。
・・・・・・それが科学というものの性格なんです。
だから今日の科学というものは、数学っていうものがなきゃ、成り立ちませんよ。
はっきり計算できないものは、信じてはいけないんです。
それが法則です。」
確かに、感じるということは、計量することができません。
そのため、感じることを、科学者は科学の対象としてこなかったのも事実です。
『ほ~』や『へぇー』という驚きの言葉を単位として、はねるのトびらではありませんが、「10へぇー」とか「80へぇー」ということは、個人の感じ方によって、ずいぶん違ってくるのではないでしょうか?
それを統計的処理をしてデータを集めたとしても、なぜ、自分が「80へぇー」であるか説明できません。
客観的評価ではなく、主観的な評価にあるからです。
そこから、科学的な法則は見出すことができないんですよね。
うれしい。
おいしい。
うつくしい。
などの感覚的なものを、計量する方法論はありようがないのかもしれません。
では、なぜそのような感情が人間の心の中に宿るのか?
茂木健一郎は、こう述べていました。
「科学的方法論は、今のところ私たちの意識を生み出す自然の秩序の本質を解明しえてない。」
例えば、花を贈ることで喜ばれるという経験をたくさん持っていても、では、なぜ喜ばれるのか?という明確な理由を科学的な根拠に基づいて説明することはできません。
これを科学で解明することができたら、花を贈るという行為から楽しみを奪ってしまうかもしれません。
主観的な感情が過去にさかのぼり・・・・・・
花との係わり合い、うれしかった時の思い出、花を育てた喜び、花を枯らした悲しみ、初めて花を贈ったときの喜び、初めて花を贈られたときの喜び・・・・・・
そういう記憶と結びついたときににさらに喜びは広がるのでしょうねぇ(^^)
花は、心の中に広がる、よろこぶというクオリアにたどりつく。
花は、感じることによって、はじめて、気分が明るくなる、小さな思いやり♪ですね(^^)