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【みんなの日本語】数え方でみがく日本語
[テキスト]
「数え方でみがく日本語」(ちくまプリマー新書)飯田朝子(著)
![](https://assets.st-note.com/img/1729770193-K2upkAxE0tDeNdZlq6YnPXyW.jpg)
[ 内容 ]
なぜチャンスは一回ではなく一度?
どれくらい細いものから一本と数える?
学年「一個上」は正しい?
雑学ではなく、数え方を通して日本語のものの捉え方を知る本。
[ 目次 ]
第1章 数え方って何?
第2章 世界のことばの数え方
第3章 数え方はどう身につける?
第4章 使いこなそう、基本の数え方
第5章 腕試し!数え方練習帳
第6章 数え方で知る昔の暮らし
[ 発見(気づき) ]
本は1冊、靴は2足、箸は3膳、ストライキは4回または4波、ビルは5階、棘は6本、遺伝子は7個、屏風は8双、たらこは9腹・・・。
確かに日本語の数詞は多彩だが、数詞があるのは日本語だけではなく、中国語にもある。
"Two Ships"ではなく「二隻」であり、実は日本語の数詞も中国語から結構輸入していることは覚えておいて損はないだろう。
でも、ちょっと考えてみてください。
英語で「1」は、人でも魚でも机でも葉書でもナイフでも家でも宇宙船でも星でも、a(an)かoneでしかありません。
その英語にも、実は数詞的な使い方をする語句があり、そしてそのありようは以外にも数詞に似ている。
例えば、対になっているものはほぼ必ず"pair"で数える。
だからパンツやはさみは常に複数形というわけ。
さらに英語をはじめ、インドヨーロッパ語族のほとんどは、単数と複数を区別する。
しかも複数形もいくつもあってややこしい。
語尾に"s"を付けるだけでは済まないものも多い。
電脳言語の世界でも、たとえば"Perl"ではそれをカバーするためのモジュールが出ているぐらいだ。
[ 問題提起 ]
これだけではない。
インドヨーロッパ語族では、離散量と連続量、すなわち数えられるものと数えられないものまで区別する。
水でも人でも日本語では大杉、もとい「多過ぎ」で通るが、英語では"much water"で"many people"である。
この数えられないものも、器に入れたら今度はその器を数えることになる。
"a cup of water"というわけである。
金も本来"how much"だが、通貨をかますと"how meny yen"(そう、yenはなぜか単複同形)となる。
実は、数詞とはこの器のことである。
[ 教訓 ]
日本語や中国語では器があるものにまでもう一段「包装」するところが面白いといえば面白いが、数詞に関しては私はむしろ各言語の共通性の方に目が行く。
インドヨーロッパ語族にはさらにややこしい、「主語と動詞の一致」(Subject-Verb Agreement)というのがある。
"I love her"は攻守を変えたとたん"She loves me"となり、日本語のようには行かない。
英語以外のインドヨーロッパ語族を知っている人は、英語はその中では易しい方だということも知っているだろう。
他のほとんどが"a"や"the"まで変化する。
あと英語は目的語(object)はひとまとめだが、他は対格(accusative)と与格 (dative)で語形変化が異なる。
そうそう。
英語で語形変化するのは代名詞だけで一般名詞はそのままだけど、他はそうでもないというのもあった。
ああきりがない。
gimmeabreak。
[ 結論 ]
これは私の憶測なのだが、この手の「余計なルール」、またはSyntactic Sugarというのは言語の歴史が長ければ長いほど少ないように見受けられる。
例えば英語には不規則動詞が200以上あり、そして不規則動詞の方が高頻度で使われる。
日本語はわずか2つ(「くる」と「する」)。
しかしこれも高頻度で使われる。
そして中国語では"0"である。
しかし面白いことに、文法の単純化が進むと、あとで余計なルールを付け、これがさらに言語を面白くすることもある。
数詞というのはこの類いかもしれない。
むしろ日本語の威力は、接尾辞、すなわち「てにをは」にあるかも知れない。
おかげで複雑な語形変化を全て放逐した上で、新しい言葉をどんどん持って来れる。
英語には"I"しかないが、日本語には私も僕も俺も拙者も自分も朕もミーも漏れもある。
しかもてにをはのおかげで、語順も多彩だ。
「私はあなたにこのエントリーを捧げても」、「このエントリーをあなたに私が捧げて」もいいのだ。
格変化が激しいラテン語などもこれが出来るが、その代わり語形変化を全て覚えなければならない。
中国語なみにシンプルな文法とラテン語以上の多彩な表現。
それこそが日本語の自慢すべき点であろう。
あと、語形変化を接尾辞におきかえたもう一つの美点が、辞書の引きやすさである。
英語ではbeだけ覚えてもbeを辞書で引けない。
am,are,is,was,wereと残り5つ揃って初めて一組だ。
これでは私と俺を切り替えるだけの余裕は持ちにくい。
しかし、この便利で美しい日本語は、電脳で扱う時には悩みの種になってしまう・・・
[ コメント ]
文章をばらして行く時に、接尾辞のおかげで膠着語なのでspaceで split //なんて出来ない。
並べ替えもアルファベット順というわけにも行かない。
そもそもなんて読むのかわからない漢字も多い。
その漢字だって本来自由に創作できるのだけど、それに文字コードを割り当て流通させるのは至難の技だ・・・