【本日の思いつきバックナンバー】「みんなの俳句大会(旬杯)」版バックナンバー
【前書き】
自分の1日を、適宜、備忘録的につぶやいたり、メモ等を残しておくことで、今年の自分シーンへの振り返りのためとか、友人への近況報告になったりしてオススメかなって思います。
三日坊主でも続く日記と考えれば、案外、楽しいかもしれません。
つぶやくスタイルは、日記・随筆・エッセイっ風でも、五・七・五の俳句風でも、面白ければいいのかなって、そう感じます(^^)
みなさんは、日記・随筆・エッセイって、どんな違いがあると思いますか?
書いた本人が「これは日記」と言えば日記とも言えるし、「エッセイ」と言えばエッセイになるような。
例えば、エッセイは、随筆に似ているけれど、もうちょっと軽い感じのものって気がします。
だけど、自分の目でよく見たり、よく人のお話を聴いたり、読んだり耳にしたこと、その中で心の底から感動したり、感じたことを自分なりに深く考え、ある程度考えがまとまったら、ダラダラとした形ではなく、それをできるだけ簡単、明瞭にわかりやすく書き表すことが大切なのかなって気がします。
まあ、あまり堅苦しく考えずに、これまで、インプットしたものの中から、心に浮かんだことを、どんどん「エッセイ」みたいな形で表現して記事を書いてきました。
ここで、何かのテーマを日記・随筆・エッセイなどで書くことの意義を考えてみると、自分の思考を文章にして書き出すことで思考が整理できたり、それを読み返すことによって、自分の思考に対し客観的な視点を持てたり、そのため脳内だけで考えているよりも、より思考が進むといった利点があると思います。
そこで、必要な行動として、どんなテーマでも思考すること、書くこと、後で読み返すこと、読み返してまた考えること、また考えたことを書くことの繰り返し、要は、その習慣づけがメタ認知のために大切なんだなって、今回の作業で再認識した次第です。
振り返りは、とても大切で、書くことによる思考の外化・メタ認知の促進によって、自分ひとりの中で効率よく学習(=いろんな理解、思考)を進めることが可能になるなどの効果が期待できるから、みなさんも、お試しあれ!
さて、これまでに、その時々で、書けそうだと思ったテーマをベースにして、記事を書いていたら、結構シリーズ化していて、記事のストックも多くなってきたため、備忘録(バックナンバー)としてまとめてみました(^^)
【漫文】笑いの文芸「川柳」
「田辺聖子の人生あまから川柳」(集英社新書)田辺聖子(著)
今の世の中、潤いが足りない。
大人が元気がない。
笑いの文芸「川柳」を、大人がもっともっと覚えて、もっともっと使いこなしたら。
日本人は、元気になれるん違うやろかと言ったのは、田辺聖子さん。
川柳の可笑しは、何度でも、何度でも、ぶり返す、そんな感覚を持っている。
すっかり忘れていたのに。
どうしたことか。
ふとした拍子に、突然、急旋回。
頭の中で、すこーんと、音も鮮やかな一撃をくらわしてくれる。
そして、笑いが噴き上げた瞬間。
あたりが真空に転じたような晴れやかさを覚える。
と同時に、人の世の深淵を、のぞきこんで唸る瞬間が、川柳に備わっているのではあるまいか。
川柳は、人生を見晴るかす、爽快な一撃であると感じる。
例え、藪のなかに迷いこんでいるときでも、霧も闇も掃き清めてくれるみたいに、解放された境地へと招き入れてくれるのだ。
田辺聖子さんは、「吉き哉、川柳」「人間真理の芸術」と、手放しの賛辞とともに記している。
「川柳のよさを、言挙げして下さい、といわれたら、私は、《川柳あって、世は生きやすし》といいたい」
「コンコンコン/トントントントン/ドンドンドン!」咲
これは、2008年に行われた「第4回トイレ川柳」(主催:TOTO)において、最優秀賞を獲得した川柳である。
ドアをノックする音のみで句を形成し、しかも、トイレの内外にいる人の心理状態をも、見事に表現した秀作だ。
本書は、長年の川柳愛好者である女流作家の田辺聖子さんが、お気に入りの100句を紹介し、ときに妄想を交えながら、ユーモラスに解説を加えていく川柳集である。
実を言うと、読み始めたときは、本書に、少々物足りなさを感じていた。
一冊の本を読んだからには、川柳について語れる何かを得ておきたい。
そんな下心を抱きながらの読書だったが、著者の語る川柳話からは、期待していたような成果や実用が見いだせなかったのだ。
「新聞を切り抜く男職がなし 小島祝平 新聞を切り抜くというんだから求人広告かしら。戦後はものすごい就職難。町にはどっと復員兵があふれ、町は焼け跡だらけ、きびしい就職難だった」
「あの時の恋はよかった角砂糖 岸本水府 これはかわいらしい句。コーヒーだとか紅茶だとか飲んでるような恋だから、ういういしい。今は、角砂糖よりさらっとしたスティックになってるのか。やっぱり若い人の時代という感じですね、これ。この句を詠んだときの実際のお年はわからないけど、この一つで若い子らの句やなと連想する。不思議です。言葉って。中年の恋も角砂糖は使うでしょうけど。でも、それは想像できなくて、やっぱり若者っていう感じですね」
時代を懐古したり、状況を想像したり、川柳の続きを独自につけ加えたり。
川柳評というよりは、エッセーのような雰囲気で展開されていく。
川柳の歴史が案内されているわけでも、論じる上でのポイントが示されているわけでもない。
新書というと、つい手軽な知識や教養を求めてしまうが、それに即応してくれる本ではない。
しかし、ひとつ句を読み、その解釈に耳を傾ける。
「なるほど」と感心したり、「いや、違うだろ」なんてつぶやいてみる。
そんな読書を続けるうちに、いつしか川柳をめぐって、田辺聖子さんとおしゃべりしているような感覚におちいった。
身を委ねたくなるような世界観を醸し出すあたり、さすがはベテラン作家の力量である。
余裕のある読書だ。
「何かを得よう」と肩肘張って文字を追いかけていた自分が、少し恥ずかしくなった。
一般的に、川柳といえば、「サラリーマン川柳」のような公募川柳、あるいは、新聞に投稿される時事川柳みたいなものが思い浮かぶが、本書に紹介されているのは、すべて川柳作家が「文芸」として詠んだ作品である。
作家の選定は、1928年生まれである著者の同世代~親世代くらいにしぼられており、その作風も、日常の1シーンや、人生の真理を詠むといったものがほとんど。
それ以前の、例えば、江戸時代に詠まれた名句もなければ、現代の川柳が持つスタンダードなイメージである、政治や社会をチクッと風刺するような作品も、ここには登場しない。
さらにいえば、100句中の約20句が、著者の生まれた大阪の言葉で、あるいは、大阪の町を舞台にして詠まれたものである。
氏名を冠したタイトル通りに、著者が好きな句について好きなように語るという、田辺聖子ワールド全開の内容なのだ。
読者は、その世界観にノルかソルかだろう。
「なんぼでもあるぞと滝の水はおち」前田伍健
「酒ついであなたはしかしどなたです」橋本緑雨
「招き猫静かな悋気聞いている」篠村力好
これらは、著者が「おかしみ」を感じた句として紹介されている川柳である。
確かに、どれもおもしろいが、新味に膝を打つほどではない。
自然を擬人化する手法や、酔っぱらったときの「あるあるネタ」などは、現代でいえば、漫才やコントといったお笑いによく見られるセオリーだ。
しかし、帯で「覚えておいて、人生の中で、ハンカチみたいになんぼでも使ってほしい」と言うように、本書に登場する川柳には、読み返しても飽きない味わい深さがある。
例えば、将来、今の「お笑い」を懐古して、噛みしめ直すことはできるだろうか。
ネタの短縮化が進み、1回こっきりの使い捨て感が、ますます強まる芸人たちの言葉遊びに、そのような耐久性があるとは思えない。
著者と時代や文化を共有している者と、していない者とで、楽しみ方に差が出る本ではある。
とはいえ、「人生の達人」田辺聖子さんが選りすぐった川柳。
どれもミニチュア細工のようだ。
読みこむほどに精巧さが見えてくる。
因みに、私のお気に入りはこれ。
「大日本天気晴朗無一文」川上三太郎
川柳家として初の紫綬褒章を受賞した昭和の代表的な作家・川上三太郎の最高傑作だそうである。
冒頭に挙げた「トイレ川柳」は、偶然ネットで見つけ、そのユニークな表現方法に驚かされた一句だが、漢字だけで構成されるこの川柳にも、同様のオリジナリティがある。
さらに、青空の下、着流しの男がデーンと仁王立ちしている、そんなイメージまで喚起された。
五七五で、ここまでのスケールが出せるとは、恐るべき川柳の力量を感じ、目から鱗が落ちた。
「はじめまして現代川柳」小池正博(著)
「さいえんす川柳 「研究者あるある」傑作選」(ブルーバックス)川柳 in the ラボ(編)
最後に、「忙」は、「りっしんべん」に「亡」、即ち「心」を「亡くす」と書く。
金やモノを追い求めるのに忙しくて、本当に大切なもの、本当に尊いものを見失っていないか?
ミヒャエル・エンデの「モモ」に描かれているように、
「モモ」(岩波少年文庫)ミヒャエル・エンデ(著)大島かおり(訳)
みんな、「時間泥棒の灰色の男たち」に時間を盗まれているのに気づいていないのではないか?
そのことが、どれだけ、大人や子どもの心を寒々とさせているか、私たちは、一度立ち止まって、よく考えてみるべきではないか?
しかし、人やものと接する時間がいくらあっても、そこに本当に愛情がこもっていなければ、心に潤いをもたらすことはできないのではないかと感じる^^;
心は渇いたままであれば・・・
大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたか。
いつでも、上手くできやしないけど、
・言葉に耳を傾ける
・眼差しに応える
そういうちょっとしたことでいい、そこに心がこもっていれば、言葉、行動、すべてにおいて、上辺だけにならないよう、常に心に留めておきたい言葉である(^^)
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【コトバンク】
精選版 日本国語大辞典 「川柳」の意味・読み・例文・類語
せんりゅう センリウ【川柳】
[1] ⇒からいせんりゅう(柄井川柳)
[2] 〘名〙 (「川柳点」の略) 江戸中期に発生し、一七音を基準として機智的な表現によって、人事、風俗、世相などを鋭くとらえた短詩型文学。もともと俳諧の「前句付(まえくづけ)」に由来するが、元祿(一六八八‐一七〇四)以降、付味よりも、滑稽、遊戯、うがちなどの性質が拡充された付句の独立が要求されるようになり、一句として独立し鑑賞にたえる句を集めた高点付句集が多く出版され、新しい人事詩、風俗詩となった。享保(一七一六‐三六)頃から、点者の出題に応じた「万句合(まんくあわせ)」が江戸で盛んになり、その点者、柄井川柳が代表的存在であったところから「川柳」の名称が生まれる。文化・文政(一八〇四‐三〇)頃、「狂句」とも呼ばれた。川柳点。
※黄表紙・金々先生造花夢(1794)「仰向いて搗屋(つきや)秋刀魚(さんま)をぶつり食ひ、とは川柳の名句であった」
精選版 日本国語大辞典 「俳句」の意味・読み・例文・類語
はい‐く【俳句】
〘名〙 (「俳諧の句」の略) もと俳諧連歌の第一句(発句)が独立してできたもの。元来は俳諧連歌の発句および連句の句をさしていっていたが、明治にはいって正岡子規が発句のみを意味する語として使うようになってから一般化されるようになった。五七五の三句一七文字で完結する日本独特の短詩で、季(き)を入れるならわしであるが、季語の撤廃や定型を破った自由律の主張などもみられる。
※俳諧・虚栗(1683)序「翻レ手作レ雲覆レ手雨 粉々俳句何須レ数」
精選版 日本国語大辞典 「短歌」の意味・読み・例文・類語
たん‐か【短歌】
〘名〙
① 和歌の一体。長歌に対して、五七五七七の五句から成るもの。みそひともじ。みじかうた。
※万葉(8C後)二〇・四四七一・題詞「冬十一月五日夜、小雷起鳴、雪落二覆庭一、忽懐二感憐一、聊作短歌一首」
② 主として中世歌学において長歌の誤称。
※俊頼髄脳(1115頃)「次に短歌といへるものあり。それは五文字・七文字とつづけて、わがいはまほしき事のある限りはいくらとも定めずいひつづけて、はてに七文字を例の歌のやうに二つつづくるなり」
③ みじかい詩。
※空華集(1359‐68頃)六「詩帯二岷峨気一、学兼二洙泗文一、短歌蒙二拊撃一、蕪語辱二鋤斤一」 〔魏文帝‐燕歌行〕
補注 「古今和歌集」の諸本で、巻第一九雑体の始めにある長歌に「短歌」と記されている。古今集を絶対視する考えから、これを正しいものとして、中世歌学では長歌を短歌、短歌を長歌と呼ぶ説が行なわれたもの。
【後書き】
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