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『トラペジウム』感想 ~共犯の彼女たちはいつ光り輝いたのか?あるいは、電車に乗らない東ゆうに向けて~

 まず、未見の人間向け。
 公式がPVを出している。
 『トラペジウム』という作品の、旨味の乗ったトロの部分や、血の気を帯びたエグみのある部分など、映画としてのクリティカルなところがかなり含まれたマグロ5貫食べ比べセット。これが全てではまったくないが、しかし作品のエッセンスを感じるには割合十分な量。人生のうちの2分間をこのPVを観るのに費やした上で、僅かでも感じるものがあった方は、以下の文章を読むのを辞め劇場に足を運んでいただきたく。
 以下本文。17900字程度。お付き合いいただければ幸い。


異形の”アイドルもの”として、真っすぐな”青春もの”として

 『トラペジウム』………………大傑作!!!!!!!!!!!!!!!!
 乃木坂46一期生・高山一実 作の長編小説を原作に、CloverWorks制作で映像化したアニメーション作品『トラペジウム』。非常に、面白かった。
 実際にアイドルやってた人間の手による、「アイドルもの」との事前情報。実際おれは「アイドルもの」美少女コンテンツが結構好きであり、現役だったアイドルならではの視点で描かれる作品に興味があった。この作品で「アイドルもの」の筋力をつけ、他の作品の読解や創作に活かしたいなぁと思い劇場へ。
 その結果、頭をカチ割られた。
 重い一撃。想像だにしない角度から振り下ろされた、アイドルを目指す一人の女の物語に対しておれのガードは間に合わなかった。一人の人間が、理想と現実のギャップに挟み込まれその身から血を吹き出しながらも、それでも何かを為そうするグロく美しい物語。一方で、そんな挫折は青春のよくある1ページだと言わんばかりの俯瞰した目線があり、全てを削ぎ落とした果てに女女女女の強い結びつきと、人間の放つ強い輝きだけが残る。『トラペジウム』のことを内心割とナメていたおれは、実際相当に自分の好みな物語/テーマを思いがけず喰らい膝を屈した。今じゃ主人公である東ゆうのことを丸一日考えているよ。
 当初「アイドルもの」を求めて行ったおれの目論見はというと……皮肉な話ではあるが、結果として、この作品を一般的な「アイドルもの」に分類するのはジャンルエラーであるとさえ今は感じる。間違いなく、間違いなく「アイドル」という存在、それが持つ人の身を焼く光の話をしている作品ではあるのだが……しかし、既存の「アイドルもの」の文脈で語るべき作品では絶対にない、異形の「アイドルもの」。そして一方で、実際真っすぐな「青春もの」であるとも思う。陳腐な表現ではあるが、少女たちのかけがえのない青春を描いた映画として、この作品はおれに刺さったのだ。

東ゆうという、とにかく厭な女

 主人公、東ゆう。『トラペジウム』の物語はすなわち東ゆうの物語であり、東ゆうという女をどこまで好きになれるかがこの映画自体を好きになれるかを左右する。
 そして重要な事実として、東ゆうは明らかに、万人に好かれるようなキャラ造形の対極にある。というか明らかに、第一印象として殆どの人間から嫌われるように敢えて、意図してそう作ってある主人公。めちゃくちゃピーキーな造りだ。

 半島地域「城州」の東に位置する城州東高校に通うゆうは、 他の3つの方角の高校へと足を運び、かわいい女の子と友達になる計画を進める。 その裏には、「東西南北の美少女を集めてアイドルグループを結成する」という野望があった。

公式サイト”STORY”一部抜粋

 開幕からぶっこまれる、東ゆうの野望。それは、同じ半島の東校西校南校北校から一人づつ美少女を集めてアイドルグループを作ること。自分が「東」を担当し、他校の素人三人をアイドルの道に引っ張り込んだ上でそれぞれの方位に割り当てる。結果、一つのユニットの中に東西南北揃っててすごいという、ただそれだけの、一つのフックだけを得るために、一切無関係の人間三人の人生を巻き込もうとしている。自身の夢である、アイドルになるためだけに。
 ……正気か??? その通り、正気の沙汰ではないのだ!まずこの開幕での前提情報のない狂気ポイントが視聴者振り落としゾーンとして機能していますね。この映画……何か変!?
 東ゆうは正気ではない。少なくとも、ある一定期間までは。そこは間違いなく、そうである。常人の感性を持つ者であれば眉を顰める他ない、アイドルとしてのサクセス計画。偶然知り合ったマブダチ四人でアイドルを目指すとかそういういかにもアイドルものっぽい話ではなく、まず、アイドルありき。何も知らぬ他校の素人三人を、通っている学校の名前という項だけを見て括りだし、自分と共にアイドルの道を歩ませようとしている。打算に満ちた、極めて歪な計画。まず東ゆうの”野望”が作中で明らかになった時点で、この映画の倫理ラインが心配になることだろう。大丈夫か?
 あるいは、「仲間」を引き込んだ後、アイドルになった後のことを見越した布石として、打算100%で車椅子の子供達と登山をするボランティア活動に参加を決めるくだり。障害を持った子供を助けるボランティアという、世間からの”ウケ”が良い活動に勤しむ理由は、ひとえに自分がアイドルになるため。

 東西南北の四人が揃い、東以外の三人は東を信じて、着いてきてくれる。友達だから、一緒になんでもやるし、アイドルだってやってみせる。四人は絆で結ばれた親友同士だから。辛いこと、苦しいことがあっても、四人なら乗り越えられる。東西南北がこうして偶然揃うなんてまるで運命だ。この出会いに感謝しよう。ずっと仲良くしていよう。何故か流れでアイドルやることになったけど、四人ならうまくやれる。……そしてその始まりは、東ゆうによるアイドルありきの計画だ。
 非常に、非常にグロテスクである。本当に正気の作劇ではない。これ、このまま観ていて大丈夫なのか!?と大体の人間は思う筈。この映画の倫理のラインはどこに引かれているんだ?この行為は、作品の中でのラインとしても、”踏み越えている”ものなのか、そうでないのか、どちらなんだ!?と、初見ではこの時点で分からないのでかなり不安になること請け合い。間違いなく、途中で席を立ちにくい映画という媒体ならではの力技な気もするが……。
 無論、これらの行為は明らかに、作品としても倫理違反のつもりで作ってある。間違いなくそう。ちゃんと、東ゆうはヤバいことをやっていますよ、そういう風に描いてあるし、観客にそう思わせる意図がある。作品自体の倫理がヤバいのか、あるいは単に主人公の倫理がヤバいのか……この二つには作劇の意味上、大きな差があるし、『トラペジウム』は間違いなく後者。東ゆうは、ヤバい女なのだ。
 そもそもOP終わってすぐ南校の看板に蹴り入れるところとか、普段からコトがうまく運ばないとやたら舌打ちしまくるところとか、極めつけは味噌汁捨てるところとか。フィクションにおいてメシを粗末にするという行為に演出上どういう意味があるかなんて、今や全員が知っている。別にそんなシーン入れなくてもいいのに、わざわざ東ゆうは他人から貰った味噌汁を地べたに捨てた。どう考えても「この女なんか、厭だな」と思わせるためだけに、作品がこちらをチクチクと攻撃してきている。手を変え品を変え、東ゆうという女を好きになりにくくなる、そういう描写がコンスタントに繰り返される。
 東ゆうは頭が変だ。他人の人生を自身の野望に巻き込むことに、躊躇いはないのだろうか?東西南北の、尊い友情の根っこには、東ゆう個人の打算があり、嘘がある。こんなことをして、何とも思わないのだろうか?西と南と北、自分を信じて着いてきてくれた三人の友人を騙し続けるような真似をして、恥ずかしくないのだろうか?これは真まで腐りきった、他人を屁とも思わぬ最悪女が手段を選ばず成功を掴むまでの、波乱万丈のキチガイ伝記なのだろうか?

 否、否、否。絶対に、否である。

 ……ときに、作品に対する感想というのは基本自由であり、何を見てどう感じるかはその人間次第で、それは他人にどうこうされるべきではない。こうした考えは、実際安い建前ではあるが、しかし建前であるからこそ重要であり、意識して守っていく必要がある。建前は皆で守るからして建前なのだ……というのが普段のおれの意見である。その上で、今述べた建前に真っ向から反することを言うのだが、 
 『トラペジウム』は、アイドルになるためなら周りの全てを犠牲にして顧みないサイコ野郎が主人公のスリラーであるという見方は、完全に全く正しくない。絶対に正しくない。上映直後にインターネットでそうした言説がちょっと流行っていたらしいが、あの話を観てどうやってもそんな結論にはならないと思う。本当に同じものを観たのだろうか?東ゆうは間違いなく頭がおかしくなっているが、サイコ野郎なんかでは全くない。絶対にない。何故か。

東ゆうが、なんとも思ってないワケ、なくない!?

 東ゆうという女を理解するのに立ちふさがる壁その1。それは彼女のオリジン。
 それはそのキャラクターの行動原理。人間の根幹をなすもの。主義主張の源。東ゆうの、アイドルという存在へと向ける狂気的な「信仰」の、その根源とは何なのか。彼女の持つアイドルへの憧れを理解するための、強烈なエピソードは、作中でどのように描かれるのか。

 答え。特にちゃんと描かれない。
 なぜそこまでしてアイドルになろうと思ったのか?という問いかけに対する答えは、「初めてアイドルを見たとき思ったの。人間って光るんだって。それからずっと、自分も光る方法を探してた」のみ。
 OP映像でも分かる通り、東ゆうは幼い頃誰かしらのアイドルの立つステージをTVで観て、強い憧れを抱いた……恐らくこれ以上のことはない。海外留学中の孤独を癒やしたから……などと、その背景自体を考察をすることはできるが、それも劇中で言葉にされることはない。
 なぜアイドルになろうと思ったのか→憧れの人がいたから、というのは普通にベタな話ではあるのだが、しかし東ゆうの持つアイドルへの憧憬というのは最早狂気そのものであり、作中で彼女を狂気的に動かすその力の根源として、果たして納得できるものだろうか?ジョルノ・ジョバァーナがギャング・スターに憧れるに至った話くらいの強度のエピソードが出てきて然るべきではないだろうか?
 果たして、ここにノリきれるか否かで、『トラペジウム』の物語にノレるかどうかが大きく左右されると思う。おれはというと「嗚呼、お前も劇しい光に脳を焼かれた者なのか」と、普通に納得した。強烈な憧れ。身を焼く強い輝き。それを我が手に収めようと、輝きに向けてその手を伸ばすことを、一体誰が止められようか?「かつて光を見たから」。それは十分、光を目指す理由足り得るのではないだろうか?少なくともおれはそう思う。
 一方でここを理解できない人間はまず、東ゆうの行動原理が理解できないので、ひいてはその行動に人間味を感じることは一切なく、恐れる他なくなる。理解のできないものは恐ろしい。主人公の狂気に共感まで行かずとも、理解を示すことができるかどうかで、我々と東ゆうの距離感が変わってくる。決して共感する必要はないのがポイント。その輝きの本質は、東ゆう本人にしか分からないことなのだから。
 実際ここには原作者の強い強いイズムが現れていると思う。アイドルに憧れるのに、アイドルを目指すのに、もっともらしい理由など、不要。だってアイドルは輝いているのだから。至高の輝きを有する職業なのだから。その素質のある人間は皆、まずアイドルを目指すべきなのだ。だってアイドルは、こんなにも、素晴らしいのだから。この辺は、この作品の原作を書いたのはアイドルなのだということを意識させられるポイントの一つだ。アイドルに憧れるのは自然なこと。当然の行為。それは作中の東ゆうが他人に向ける台詞の全てに、色濃く現れている。

 東ゆうという女を理解するのに立ちふさがる壁その2。それはそれとして東ゆう本人も実はだいぶ追い込まれており本人比でも結構おかしくなっているという点。
 何故東ゆうはオーディションを受けてアイドルにならないのか?というこれまた当然の疑問に対する答えも、作中で極めてシンプルに示されている。
 「オーディションに全部落ちたから」。言ってみれば、後がない立場。言うてまだ高1の分際で……と思わないでもないが、ここでもアイドルが原作者であるということを意識するとシビアな現実が見えてくる。高1で芽出てないアイドルはもう、崖っぷちなのである。
 上で東西南北計画は正気の沙汰ではないと記したが、それも当然、映画開始時点の東ゆうが、本人比ですら正気ではないのだから!東ゆうの、アイドルへの憧憬という名の狂気とはまた別のレイヤーで、追い詰められたアイドル志望少女の破れかぶれの計画というまた趣の異なる狂気があり、二つがガッツリ重なっている。初見だと、序盤でこの二つを区別するのは極めて難しい。というか何故オーディションを受けないのかという疑問に答えが出るのが普通に中盤以降だ。
 ハッキリ言ってあんな計画は上手くいくほうがおかしい。最初っからチャートはガバガバだし、実際偶然が重ならなければ「東西南北」は成立しなかった。絶対に、変なのだ。いくら東ゆうが元々アイドルに脳を焼かれておかしくなっていたとしても、流石に頭がおかしすぎる。作中の倫理ラインを平気で踏み越える東ゆうの行動は、作品単位で見ても変だし、そして本人にとっても、やはり変なのだと思う。焦っているのだ。

 二重の狂気。そしてその裏にこそ、東ゆうという女の本質があるのだとおれは考える。実際ここは普通に意見が分かれるところではある。だって東ゆうは元々心底頭がおかしいので立てる計画だっておかしいし、他人に対する振る舞い、扱いもおかしくて、他人を何とも思わない。これも普通に自然な話なのだから。
 しかし、しかしだ。

 「こんな素敵な職業ないよ」。原作者のイズムが、東ゆうの哲学がこれ以上なく漏れ出る、『トラペジウム』で1,2を争う名シーン。アイドルの持つ輝きに対する憧憬は当然のもの。そしてその輝きを目指す道筋すらも、決して辛い筈はなく、素晴らしい栄光に彩られた楽しい道程に決まっている。東ゆうのアイドル至上主義と、他三人の考えの決定的な断絶。二つの価値観が致命的なコンフリクトを起こし、けたたましく軋みを上げる象徴的なシーンだ。
 ここの東ゆうの台詞自体は、その文字列自体は、間違いなく東ゆうの本心であった。その筈だ。しかし同時に、この台詞は己に言い聞かせる類のものでもある。おれはそう捉える。
 アイドルとは素敵な職業だ。全てが素晴らしい。皆に笑いを届ける。なんと尊く、楽しい仕事だろう。
 しかし、この台詞の前段階から、果たして東ゆうも、楽しく仕事をしていたのだろうか?本当に、東ゆうはこの期に及んですら、アイドルという職業の絶対的な素晴らしさを盲信し続けていたのだろうか?

 多分、違う筈だ。そんな筈はない。
 東ゆうおよび創り手が、作品の掲げる狂気に完全に無自覚で、他人にそれを押し付けているのみなのがキツい、という批判はこの作品にはまったくあたらない、とおれが考えている理由こそ、ここにある。ここは東ゆうの狂気が最も色濃く映し出されるシーンであり、同時に東ゆうが自身の狂気に最も自覚的なシーンの筈なのだ。こんなヒッチコックみたいなドリーズームの画が出てくる時点でな。
 アイドルとは素晴らしく、そこに至るまでの道のりすら輝かしい。その筈なのに、当の東ゆうですら、ここで辛さのピークを迎えていた。間違いなく最初は楽しかった筈だ。しかし今や東西南北はバラバラになり、狂気につき動かされていた東ゆうの足も、ここで止まる。西担当の大河くるみがここで最初に”壊れた”が、ここでくるみが壊れていなかったとしても、恐らくはやがて東自身が、修復不可能な程に壊れていたのだろう。完全無欠で素晴らしい筈の、アイドルという仕事を通して。あれは東西南北の断絶を描くと同時に、東ゆうの中で自分の中の理想と現実が軋みを上げるシーンでもあった。アイドルは皆に笑いを届ける素晴らしく楽しい仕事なのか?亀井美嘉に、身近な人間も笑顔にできないのに、と言われたのは、間違いなく東ゆう自身にとっての図星であったことだろう。自分ですら、アイドルを楽しめていなかったのだから。

 やっぱり、後半の泣き叫ぶくるみちゃんは見守っていてほしいです。周りにいろんな人がいる環境で、あそこまで感情を爆発させられることってなかなかないと思うんですけど、だからこそくるみちゃんの辛さや限界も感じられて。それと同時にすごく大切なことでもあるなと思っています。心が死んでしまう前に叫べることは本当にすごいことですし、あれこそくるみちゃんの本音でもあると思うので、ぜひ見届けていただきたいです。

パンフレット 大河くるみ役 羊宮妃那インタビューより

↑めちゃくちゃ的を射たインタビューだと思う。
くるみが先に壊れてくれてよかった、というのが正しいのかもしれない

 東ゆうが、自分が「嫌な奴」であることを省みるシーン。自分がこれまでしてきたことを振り返り、自分の最悪な面と向き合い、自分というものを見失うシーン。何故東ゆうがこのとき自身の定義を見失ったのかといえば、それは自身の依って立つオリジンたる「アイドルとは素晴らしいものである」という価値観自体が揺さぶられたからである。現実を前に、そうではないのかもしれないと、思ってしまったからである。
 そしてここの母親の台詞こそが東ゆうの本質を深く切り取った台詞であり、おれがこの映画で最も好きな台詞なのだ。「そういうところも、そうじゃないところもあるよ」
 
東ゆうは、とにかく厭な女だ。そういうところが、間違いなくある。でも、そうじゃないところだってある。それは本当に、普通のことなのだ。そうじゃないところも、ある。

 上で触れた話の結論を述べよう。他人を顧みず周囲の全てを利用するだけして踏みしだきながらアイドルの輝きへと至らんとしている、とされる東ゆうは、どうしてサイコ野郎ではありえないのか。

 実際東ゆうが、他人を踏みしだいてなんとも思わないワケ、なくない!?

 東ゆうは頭がおかしいので、自分以外の人間も皆素質があればアイドルになるべきだし、自分が見出した原石達がアイドルに向いていない筈などないと心の底から考えている。皆、心の底では、なれるものならアイドルになりたいと思っている筈なのだ。だから始まりは純粋な善意だった。私が、皆をアイドルにしてあげる。皆でアイドルになることが幸せだと、そう信じていた。
 東ゆうは行動力の化身なので、皆をぐいぐい引っ張るし、自分のことを「自信過剰な奴」だと定義づけている。この四人なら、絶対に一緒にアイドルになれる。皆でアイドルになろう。一緒になって、やっていこう。
 ……けれども。東ゆうはその実、本編開始時点でオーディションに落ちまくった結果として自信をすっかりなくしていた。全編に出てくる、指先で首筋に触れる東ゆうの癖は常に、東ゆうの緊張を示している。何故「東西南北」計画などという無謀に走ったのか?それは四人ならばアイドルになれると思ったからだ。そしてその思いの裏には、四人でなければ絶対にアイドルにはなれない、という思想がある。何故、東ゆう一人ではアイドルになれないのか?それは自分一人ではアイドルになることはできないのかもしれないという諦めが、東ゆうの中に確かに存在するからに他ならない。一人では、最早無理なのだ。理想と現実。東ゆうという女には、本編開始前に既に、この二つに挟み込まれた結果として大きなヒビが入っている。それでも、この四人ならばアイドルになれる筈だ、そう信じて進み始めた。
 そもそも東ゆうは果たして他の三人を足蹴にしたのか?否である。踏み台にしたか?否である。確かに東ゆうは他の三人を利用した。けれども、自分の踏み台にはしなかった。何故なら皆でアイドルになることこそが、皆の信じる幸せなのだから。打算で結んだ関係。そうだとしても、それが皆のためなのだ。一緒にアイドルであること自体が、皆のためなのだ。
 東西南北はあくまで対等であった。自分一人では最早アイドルにはなれず、四人一緒でこそ、初めてアイドルになれる。あくまで自分は、東西南北という装置の、部品の一つであるというような立ち位置だった。自分一人が幸せならばそれで良いという価値観のもとで、他の三人を利用している?全て計算ずくで、自分がアイドルになれれば良いのだろうか?そんな筈はない。打算こそあれ、東ゆうにとっては四人一緒でアイドルをやることが、皆にとっての最大幸福であった筈なのだ。
 強烈なエゴ。その傲慢。歪な思想。しかし、それでも、信じているのは四人一緒の幸福である。

「とにかく楽しむ_みんなにも楽しんで欲しい」
なんと、なんといじらしいことか。東ゆうの、東ゆう性の象徴。
これだけで泣けてしまう。東ゆう……お前は……

 だがその上で。自分へのファンレターが、SNSのコメントが一人だけ少ないと、思うところがあるような表情を見せる。自分一人が頑張っているのにそのことを評価されなければ、「私ばかり損してずるい」と思う。思ってしまう。他の三人が実際は、東ゆうとの価値観の違い故に全然楽しめていないアイドル活動で擦り切れていく一方で、東ゆうも、四人揃っていさえすれば楽しい筈のアイドル活動で心を擦り減らしていく。どうして、楽しむことができないのだろう。どうして、思っていたのと違うのだろう。最後まで思い至らなかった、筈がない。そしてその臨界点で「こんな素敵な職業ってないよ」が発生し、他の三人との断絶が決定的になる。そのまま、「私って嫌な奴だよね」に繋がる。自分の計画に三人を巻き込んで、そしてそれが破綻を迎えた頃には、東ゆう本人がボロ雑巾になっていたことが全てである。東ゆうにだって、人間の心がある。情緒がある。罪悪感がある。終始、ある。故に東ゆうは傷つき、倒れるのだ。東ゆうだって、血を流す。

東西南北というシステム、運ぶ電車

 この映画はOPから始まり電車が繰り返し繰り返し登場する。この映画における電車とはすなわち、運ぶ力の象徴である。ただその身を預けているだけで、レールに沿って身体を遠くまで運んでくれる箱。『トラペジウム』では本当に電車が何度も登場するが、その都度東西南北の関係性の変化を色濃く反映している。(ところで、同スタジオの『ぼっち・ざ・ろっく!』でも電車のシーンでしっかりしたコンテが切られていた記憶がある)
 席の座り方、並び方。心的距離の離れを反映するように、離れて座る四人達。そして殊更に印象的なのはやはり、東ゆうが一人夢に微睡む中、大河くるみが遠くへと運び去られる己を自覚し、車窓の景色を冷めた目で眺めるシーン。かつては皆で、向き合い座り、夢を見た筈なのに。おれは鑑賞時、くるみを運び去る電車とはすなわち東ゆうの比喩なのだと解釈した。だが今思うとそれはまったくの間違いである。何故なら東ゆうだって、同じく電車に乗っているのだから。一人の乗客でしかないのだから。
 東ゆうは、列車の運転手ではない。三人を遠くに、運び去るものではない。上述の通り、東ゆうはあくまで、東西南北の東でしかなく、構成要素の一つでしかない。レールを敷いて、彼女らを運んだのは、あくまで周囲の大人である。一度デビューが決まったらもう何もかもがあらかじめ準備されていて、予定調和に進んでいく。遠くへと運ばれていく。東ゆうは、あくまで東西南北という電車に乗った、ただの一人の乗客でしかない。
 芸能界が大人の世界であることは劇中でこれでもかと描かれており、特に印象深いのは「東西南北(仮)」が飛んでもすぐ変わりが用意され、いっときの混乱はありつつも、何もなかったかのように全て元に戻ったこと。というか明らかに、劇中の東ゆうの「挫折」に対する周囲の大人の温度感は、東ゆうとのそれとは異なって描かれている。早い話、東ゆうからしたら人生を賭けた夢破れたこの世の終わりめいた状況なのだが、大人からしたら学生ならそういうことくらいあるよね、というくらいの感じだ。所詮は素人寄せ集めた学生アイドルの卵でしかない。亀井美嘉の彼氏バレに関しても、東ゆうの物語においては決定的な出来事でありつつ、一方で事務所の社長のトーンはだいぶ抑えめだったように思う。まぁ、そういうこともありますよね。学生なんだから。それで、これからどうするんです?あの爺さんの台詞こそ、この作品における大人と子供の視点の違いを決定づけるものであり、この作品があくまで子供にとっての世界を描いた、取り留めのない青春の物語でしかないことの証左であろう。一度の挫折くらい、こと青春においては普遍的な、よくあることなのだ。
 電車には、いつまでも乗りっぱなしではいられない。いつかは降りるときが来る。東ゆうが電車を降りるとき。電車に乗るのを辞めたとき。自分の足で、坂道を踏みしめ歩きだすことを決めた瞬間。東ゆうが、古賀さんからの電話に応え、電話越しに自分たちをここまで乗せてくれた大人たちに向けて頭を下げながら電車を見送るあのシーン。あのとき東ゆうは、自分たちの、現実を前に全て無駄に終わったあの足掻きが、確かに現実に残した爪痕を知ったのだ。古賀さんの、なんだかんだでいっぱい楽しい経験させてもらったとの語りはあまりに大人めいて俯瞰した言い方ながら、それは自分たちにとっても言えることだ。最終的に辛く苦しい瞬間だったが、それでも楽しい経験だっていっぱい味わった。思い出は残る。また、自分たちが唯一世に出した楽曲も、あくまで番組CDに収録された一曲でしかなくとも、それでも、世に形をとって現れた。CDは残る。東西南北(仮)として、自分たちは世界に向けて何を為したのか。現実に刻まれた、本当に微かなその爪痕を前に、東ゆうは己が何のために生きるのかを思い出すのだ。東西南北という電車の旅は、楽しかった。だがここまでだ。東ゆうは、電車に乗るのを辞めた。そして。

西と南と北からの視点、星を見るものからの視点

 東西南北は再会する。東ゆうは再びアイドルを志す。その栄光の道から先んじて降りた三人は、それぞれの道へと戻りながら、それでも東ゆうの歩みを祝福する。

 ところで。
 この物語は終始一貫して東ゆうの視点を取り、東ゆうのモノローグが主体となる。策を巡らせ、全てを利用し、夢へと邁進せんとする、東ゆうの視点。
 だがその実、東ゆうは策士でもなんでもない。作中でその策はことごとく上手く行かず、その度東ゆうは舌打ちをし、けれども最終的になんか状況は上手く転がっていく。東ゆうの視点を取るがゆえに、東ゆう以外の三人、西南北の内心はこれといって描かれることはない。あくまで彼女らを”騙していた”、東ゆうの視点が主観の物語なのだ。
 ……では、西南北の三人は、東ゆうによる謀略の、純粋な被害者であったのだろうか?彼女の口車に乗せられ、気づけば不向きなアイドルをやらされていただけの、無辜だったのだろうか?
 おれの答えはやはり、、である。
 だって、気づかなかった、筈がない。東ゆうの策は、実際誰がどう見てもバレバレだ。そんな悪どい策謀などではない。あからさまの、ガバガバチャート。四人が再会したとき、三人は「気づいていた」と言った。そして厳密にいつ「気づいた」のかは、彼女らの視点にカメラが行かない限り明らかになることがない。だがおれが思うに、それは多分、最初からだったのだと思うのだ。最初から、彼女らは東ゆうの、共犯者であったと思えてならないのだ。
 例えば、大河くるみ。東ゆうは努力家なので、あれで事前に多少予習はしていたっぽいが、しかし実際東ゆうと少し話しただけで、大河くるみは気付いた筈だ。東ゆうは多分ロボットに興味がない。それでも、自分を訪ね、よくしてくれた。初めての友達になってくれた。華鳥蘭子と、引き合わせてくれた。プールを貸してくれた。花火して、夏の思い出を作ってくれた。ロボコンで準優勝させてくれた。先に、自分の夢を、叶えてくれた。
 何故、何故大河くるみは本屋で偶然出会った亀井美嘉を指して、かわいい人がいるとわざわざ東ゆうに教えたのだろうか?大河くるみは平時そのようなトークテーマを提供するような少女なのだろうか?その後わざわざ東ゆう抜きで亀井美嘉と会い、お茶を飲みに行く約束をしたのだろうか???この物語の視点は東ゆうだ。だから、大河くるみの本心が明らかになることは永劫ない。大河くるみの行動の意図が、無粋にもわざわざ語られることなどない。実際、分からない。アイドル好きの友達東ゆうが、自分たちを”使って”アイドルをやろうとしていることに、いつ気づいたのかは、分からない。分からないのだ。ここの解釈は完全に、映画を観た一人一人に委ねられている。だが、だが。それでも気づかなかった筈がないと、あくまでおれは思うのだ。あのとき西日の差す中逆光で、華鳥蘭子と並んで歩く大河くるみが、皆で一緒にアイドルをやることを決意したのはどうしてなのか。背景の赤信号が青に変わったあの瞬間、くるみは内心で何を思ったのか。実際アイドル少しはやりたい思いがあったから、蘭子に背中を押された?そんな筈はない。決してやりたくは、なかった筈だ。それでもアイドルをやると言った。どうして、東ゆうに、付き合ってやろうと思ったのか。このことに思いを馳せるだけで、おれは泣けてくる。感情を揺さぶられる。彼女らにとって、東ゆうとは、どういう存在だったのか。
 東西南北の四人の関係を、東ゆうの手による搾取が根幹にあるグロテスクな関係と見るか、そうでないかで『トラペジウム』という物語の見方は、東ゆうという女に対する見方はまるきり変わってくる。前提からして、変わってくる。
 東ゆうは、西南北の三人を利用するつもりで近づきつつも、しかし構図としては必ず先に、「与えていた」とおれは思う。本人にその自覚があったかは分からない。だが東ゆうは、ただのテイカーではない。むしろ、西南北にとっての、ギバーであったと思うのだ。華鳥蘭子に勝利を与え、あだ名を与え、お蝶夫人というドンピシャの形容まで与えた。かけがえのない友人関係を与えた。打算100%のボランティアを通じ、「なりたいじぶん」を、蘭子に与えた。
 あるいは、亀井美嘉。東西南北の活動で、東ゆうの厭さを最もその身に受けた彼女が、加入が最も遅かった彼女が、実は西南北の中で一番初めに東ゆうから与えられていたという、この構図。自身を見失った東ゆうを再定義したのは彼女だった。「自分は東ゆうの持つ光に初めて救われた、ファン一号なのだ」という、彼女の思い。というかアイドルもの好きなオタクは「ファン一号」という概念が大好きなんだよな。おれは劇場で顔面の水分を絞りきるように泣いた。
 何故、東西南北計画はガッバガバなのに、それでもなんか上手く行き続けたのか。それはひとえに、他の三人が東ゆうの手を取り、裏で察し、四人一緒に歩んだからなのだと思えてならない。皆で東ゆうのフォローをしたのだ。そしてそれは、まず皆が先に東ゆうに助けられたからなのだと、おれは思う。
 そういう意味では、四人が再会したシーンを指して、あのとき初めて東ゆうは許されたのだというのも正確ではないのかもしれない。東ゆうは、最初から許されていた。確かに東西南北の分解の仕方はあまりに酷く、正視に耐えないものであった。しかし、東ゆうに酷い言葉を投げつけられながらも、彼女らは東ゆうを許していたのではないだろうか?アイドルになろうとする東ゆうに、手を貸したのはむしろ彼女達の方だったのだから。多分そうなのだと、おれは思った。
 東ゆうは嫌な奴だけど、そうじゃないところもある。そのそうじゃないところにこそ、東ゆうの持つ原初のアイドル性、アイドルとしての輝きそのものが宿っていると信じている。始まりこそ打算であっても、歩んだ時間は本物だし、生み出したものも本物だ。アイドルとしての実績のために利用した、車椅子の少女水野サチ。しかし彼女にアイドルの夢を託された東ゆうはあの瞬間、間違いなく、限りなく、アイドルそのものであったと思う。東ゆうが、アイドルとして放った輝き。嘘偽りから始まったものでも、それが本物になれない道理はない……っていう書き方をすると、実際かなり普遍的なテーマに聞こえる。そしておれはそのテーマの類型が大好きなのだ。

 最後に、忘れてはいけない登場人物がいる。工藤真司。星を撮った、カメラマン。東ゆうの作戦会議に一人参加し、その思惑を唯一本人の口から聞いていた男。彼女の語った、輝きへの憧憬を真に理解していたのは、おそらくこの映画で彼だけであろう。
 作中で彼に与えられた役割は「星を見るもの」だ。すなわち観測者。彼は星に手を伸ばさない。ただ、その輝きをカメラに収めんとする。東ゆうの語る”輝き”の本質を理解しつつも、東ゆうと肩を並べることは決してない。多分最初は普通に異性として東ゆうに惹かれているところがあったのだと思うが、東ゆうが本格的にアイドルに手をかけた瞬間、「もう会えなくなる」と彼の方から言った。東ゆうは自分と同じく輝きを追い求める同志であり、そしてそのアプローチの仕方が全く異なる、別なる道を歩む者なのだと彼は知っていたのだ。そこには東ゆうへの深いリスペクトが感じられる。
 そんな彼が捉えた一番の輝き。何故工藤真司は観測者でなければいけなかったのか。それは、東西南北の四人が、確かに「光った」その瞬間を、カメラに収める役割を与えられていたからである。

”トラペジウム”

 トラペジウム。それはオリオン星雲の中心部に位置する4つの巨大な重星。あるいは、不等辺四辺形を意味する単語。

 この物語のタイトルは、『トラペジウム』だ。
 だが、その肝心のトラペジウムという名前は、物語が佳境を迎えても一向に現れない。何故、この映画の名前は『トラペジウム』でなければいけなかったのか。その真の意味が分かるのは、本当に最後の最後の、ラストシーンまで待たなければいけなかった。

 東西南北でユニットを組むという話なので、おれは彼女らのユニット名が「トラペジウム」になるのかと、最初思った。だが、そうはならなかった。それは道理である。だって彼女たちは、アイドルとしての輝きをついぞ手にすることはできなかったのだから。アイドルとして、星の名前を冠するのは、ふさわしくない。彼女たちはアイドルとして、光らない。彼女らはあくまで「東西南北(仮)」というグループでしかない。

 トラペジウム。それは工藤真司が学生時代に撮影した、ある一枚の写真に与えられた題。
 そこに映るは、東西南北(仮)の四人と、車椅子の少女。

入場特典第二弾

 東西南北の四人が、トラペジウムという4つの重星の名前を冠した瞬間。アイドルとしての輝きを得ることがなかった四人が、それでも星の名を冠するに足る輝きを放ったのは、そのアイドル活動期間のうちの、ほんの一瞬だった。
 それは10年後の未来を念頭に、全員がバラッバラのコスプレ衣装を着て、バラッバラの方向を向き、そして共に最高の笑みで笑い合う、その一瞬。何気ない一瞬。しかし、それこそがスターゲイザー工藤真司が切り取った輝きの瞬間であり、彼女らが「トラペジウム」となった瞬間だったのだ!!このとき、彼女たちは間違いなく、「トラペジウム」だった!!

 この、この写真!!!!この作劇、この構図!!!!これが物語の最後の最後に明かされる!劇しい星の輝きに身を焼かれ、その輝きを目指した一人の少女を発端として始まった、四人の関係性。そんな彼女らが、自らの力で劇しい星の輝きを放った瞬間は、本質的にはなんらアイドルと関係ない、4人バラッバラの、この文化祭のひとときであったのだ!!こんな、こんなん、泣いてまう。泣いてまう。なんと、美しいのだろうか。
 この撮影場に来る前に、東ゆうの計画が蹴られていたのにも間違いなく意味がある。本当は、この時間は講堂で行われる学生バンドのライブを四人で見る筈だったのだ。それは東ゆうの計画。皆で肩を並べてライブを見ることで、ライブというものの一体感を味わい、将来のアイドル活動に活かすこと。同じ景色を共有すること。
 だが、そうはならなかった。偶然合流した車椅子の少女と一緒に文化祭を楽しむため、東ゆうの計画はパーになった。それでも、東ゆうは一人、少女にとってのアイドルになろうとした。
 この写真は、四人がバラッバラの衣装を纏いバラッバラの方向を向いていることに意味がある。肩を並べて同じ景色を見ていたのでは、「トラペジウム」の輝きを得ることはなかったのだと、意味している。トラペジウム。不等辺四辺形。4つの辺が、全て平行でない、同じ向きでない四角形。歪な四角。故にこそ、最も輝いている。

 このことには、重い、重い意味がある。この物語は最初間違いなく、アイドルの持つ劇しい輝きを目指す話だった筈だ。人って光るんだ。その気付き。その光を得るための、物語だった筈だ。
 だが『トラペジウム』という物語の結論はこうだ。人は、なりたいものへと成ろうとする、その瞬間に、輝きを放つ。そこにはアイドルである必要性は、決してない。
 おれはゾッとした。
 この物語は、原作者は間違いなく、おれに問いかけてきていた。アイドルって最高の職業なんだよ。輝かしい仕事なんだ。それに憧れるのは当然だし、自然なことなのだ。

 アイドルという職業に就かなきゃ見えないもの、得られないものがたくさんあって、私は良い職業だなと思います。アイドルに憧れているときは、どんなに辛いことがあってもなりたいと思っていたんですけど、実際になることができたら、思っていたよりも辛いことがなくて、楽しいこと、幸せなことばかりでした。私がアイドルになった時期や場所が、すごく運が良かったこともあるかもしれないので、私目線にはなりますが、アイドルはいい職業だよ、というのは伝えたいですね。

好書好日 映画「トラペジウム」原作・高山一実さんインタビュー

 けれども一方で、人はアイドルでなくとも光ることができる、物語はそう結論付けている。輝きを手に入れるためには、アイドルになる必要などない。
 このバランス感覚は、一体どういうことだろう。
 一方で熱を帯びた、信仰とでも呼ぶべきイズムを謳いながらも、同時に冷めた目線でそれを俯瞰する。それはある種の狂気であると、自覚的に描いている。明らかに原作者本人の言いたいことが、確かな熱量を持って語られているのに、一方で作品の中で冷水を浴びせるような批判的視座を持って描く。
 余談ながら、映画『仮面ライダー1号』で、自身で脚本の大枠を作った藤岡弘、本人が高校で命の授業をする場面、その内容が全く高校生から受け入れられず白けた目で見られていたシーンを思い出した。ある種カルト的な主張をしている作者本人が、その主張が一般的には普通に受け入れられないことにめちゃくちゃ自覚的な描き方をしている構図は恐ろしい。狂気を謳いながら、そしてそれが一般的に狂気とみなされること自体に自覚的。どのようにしてその二つの視点が両立するのだろうか。それほどまでに、自分の掲げるテーマに向き合った、その結果なのだろうか。

 『トラペジウム』は、人の持ち得る普遍的な輝きをテーマにした物語である。そのためにアイドルという「光る人」のモデルケースを参照しただけで、その構造は容易に敷衍できる。アイドルという素敵な職業の、その輝きの素晴らしさを謳いつつ、同時にその輝きの本質を解体して取り出そうとしている二面性。
 東西南北の四人の中で、結局アイドルの資質を持っていたのは東ゆうただ一人であった。アイドルになろうとする力。アイドルであろうとするその熱量。東ゆう本人が誰よりも求め、血を吹き出しながら欲したその輝き。しかしながら、実際その輝きは、誰であろうと、アイドルでなくとも、大河くるみも、華鳥蘭子も、亀井美嘉も、ある一瞬宿すことのできた、確かな光なのだ。それは、なんと優しく、温かな結論であることだろうか。
 それこそは『トラペジウム』という作品が一定の普遍性を持った素晴らしい青春映画であると同時に、「アイドルもの」のカテゴリに加えるのを悩んでしまう理由。高校生四人は結局アイドルになれなかったし、アイドルとして光ることはできなかったけど、それでも間違いなく、人間として光っていた瞬間はあったし、それを共有した彼女たちはずっとずっと友達なのだという結論は、果たしてアイドルものから出てくるものなのだろうか。アイドルの話で始めながらも、アイドルの枠を超えて着地をしたこの物語。だが、おれは『トラペジウム』のこの結論を、心から愛おしく思う。

ありがとう、トラペジウム、東ゆう……

 以上、『トラペジウム』の感想を長々と並べた。すげえ長くなったが、ほとんど東ゆうの話になっている。やはり東ゆうなんだよな。人間もっと東ゆうのことについて考えるべきなのだ。
 最後に一点。最初におれはこの映画のことを、「異形のアイドルもの」と称した。『トラペジウム』はアイドルものの文脈から大きく離れ、最早アイドルものではなくなってしまったという話を上でしつつも、やはりアイドルものでもあるという、矛盾した思いがある。これはおれ個人の哲学に由来するのだが、おれはアイドルとは「である者」ではなく「する者」であると思っている。そして『トラペジウム』はまさに、ここにおいてど真ん中のテーマであった。アイドルとはただアイドルであるから輝くのではなく、アイドルであろうと、し続けるからこそ輝くのだ。その答えを得た東ゆうが、トップアイドルになるまでの間は劇中では一切語られていない。それは当然、自明であることをわざわざ証明する必要はどこにもないからである。
 僅かにあったトップアイドル:東ゆうの描写は、自身のアイドルとなったきっかけを話すシーンであった。本当に東ゆうが、アイドルになってからのことを打算的に考えていた女であるのなら、あの場で水野サチの話をしないのは、些か不自然ではないだろうか?車椅子の少女に託された夢。素晴らしくキャッチーだ。何故東ゆうは、あの文化祭での、写真部部室の話をしなかったのか。それは彼女たちがトラペジウムとなったあの瞬間は、あの瞬間で思い出として切り離されていて、アイドル:東ゆうとは連続性を持たないから、多分そういうことなのだと思う。あれはアイドルとは無関係の、東西南北四人の輝きの瞬間なのだから。

 『トラペジウム』は、解釈をかなりこちらに委ねてくる作品であり、その受け取り方は本当に様々であると思う。
 東ゆうが、他三人を利用する構図。西南北の真意。東ゆうの囚われた狂気。東ゆうという女に、どこまで理解を示してやるのかで、この物語の味わいは如何様にも変化する。
 ハッキリ言って、おれはかなり東ゆうの側に立ちまくった解釈をしている自覚がある。上で訳知り顔で語ったおれの解釈は、あくまでおれのものであり、それは実際、かなりの割合で東ゆう贔屓のものでもある。正直今回Twitterのリンク貼らなかったけども「彼氏がいるんだったら友達にならなきゃよかった」編とかにももっと向き合い、東ゆうという女の最悪な部分に向き合うべきだと思う。お前らも頑張ってほしい。だが、その上で言うならば、東ゆうはやはり、憎みきれない女だと思うのだ。アイドルを死にもの狂いで目指した東ゆうが、「この先どんなにお金のかかる誕生日のサプライズをされても、どんなに情熱的なプロポーズをされても 、こんなに嬉しいことはないだろう」と述べたのが、東西南北の番組が始まった直後であるという愛おしさが、全てを包み込んでいる。
 ありがとうトラペジウム。ありがとう東ゆう、この世に生まれてきてくれて……

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