「ベイトマンニュース」慣れることで人は感じなくなる
私は総合病院の放射線科に所属していて、レントゲンや超音波など、毎日違う場所で働いています。
その中でも救急と直結しているCTスキャンは回転が早く、5分ごとに患者さんが入れ替わり、次々にスキャンをしていきます。この部署は救急と直結している上に入院患者を対象にしているので、重症患者が多く、その多くはベッドからスキャン用のベッドへ、パットスライドという方法で患者さんを移動させます。
パットスライドというのは寝ている患者さんを横に向けている間に硬い板を身体の下にサッと差し込み、その上をシーツごとスライドさせて移動させる方法です。
これ、患者さんにとってはめっちゃ怖いやり方なんですよ。速いし痛いし怖い。だけど一日何十人もの患者さんをパットスライドさせる私たち医療従事者は、もうそんな患者さんの気持ちは考えないようになり、感じないようになり、どんどんとスライドしてスキャンをこなしていくようになります。
忙しい中でも、ちゃんと患者さんの気持ちを感じて、声をかけたり、ベッドとベットの高さをちゃんと合わせたり(急いでいると多少の高さのズレはお構いなしで、ガクンガクンとしながら患者さんを移動させることも多い。)、できるだけゆっくりスライドさせたりできるんです。
だけど多くの医療従事者は、あまりにも多くの患者さんたちを次々に移動させていくので、その行為に慣れてしまって、患者さんの気持ちを感じることを忘れてしまう。
わかりますよ。忙しい中、いちいち細かい事を感じていたらやってられないし、スローダウンしてしまうことを。私がいちいち細かい事を気にしすぎる、やっかいな存在というのもわかっています。だけどなぁ、やっぱりそこを忘れてしまったら、私たちは医療従事者と言えるんやろか。それ以前に人として当たり前の心を持っているやろか。
最近イスラエルが携帯型の爆弾をパレスチナのガザ市民に配って、それを一斉に爆発させるという酷いことが起こりました。ほんまに世界はどうなっているんやろ。人が何の罪もない人々を殺している。宗教や権力のためにボタンひと押しで多くの人の命を奪うことに、心が何も感じない。ほんまに恐ろしいことになっているなぁ、と危機感を覚えます。
残念なことに、人は数をこなすことで状況に慣れてしまって、患者さんや殺される人や、その家族の気持ちを想像したり、感じることができなくなる習性があると思います。
ゲームなどのバーチャルの世界で簡単に人を殺したり、SNSで直接向き合わない相手を攻撃することも、「感じなくなる」原因の一つかもしれません。
生きていくうえで「慣れる」ことは重要なことやと思います。「慣れる」ことで自信が持てるし、心地よくなる。だけど慣れても感じる心は持ち続けていたい。美しいな、好きやな、しんどいやろな、痛いやろな、などなど。状況に慣れても、心が動いて感じる繊細さを失ったら、やはり人としておしまいや、と思うんですね。
こういう時代でも、こんな流れ作業の中でも、(いや、こんな時代やからこそ、)相手の気持ちを想像する、そして感じることができるのは、きっと誰かの救いになる、と思っているんです。だって結局最後に人が求めるのは、誰かにわかってもらうこと、共感してもらうことやから。
慣れて感じなくなる人は多いけど、ずっと感じ続けられる人もやはりいるんです。結局はその「人」、「自分はこうでありたい」という、その人の選択やと思うんです。
CTで1人の患者さんに関わるのはたった5分。その人にはもう二度と会うこともないかもしれない。それでもやはり私は、数をこなして心が何も感じなくなることは避けたい。やはり一人一人の患者さんの気持ちに沿いながら関わりたい。そんなめんどくさい自分の理想と日々戦っています。
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