女の怨みと骨董趣味
女の怨み
先日、まだ単行本化されていない『一私小説書きの日乗 這進の章』を読んでいたら「馴染みのXXX嬢と食事」とあって、「…!!!」と思った。
別れてから何年も経ってのことだし、死んでからだってもうじき2年になるのに、ヤキモチを焼いた。
おのれ、死人のくせに!!! とヤキモチを焼いた。
話は遡るが、2022年の2月のことだ。
亡くなって十日も経った頃、ああ、どうでも気分転換が必要だ、気を紛らわさないことにはどうにかなってしまうのでは?と感じた私は、彼が布団で腹這って仕事をしていた畳の部屋へ入って行った。
その時の私は怒っていた。
数時間おきに、発作的な慟哭に襲われてわあわあ泣き、近しい人を亡くすというのは、まあここまで辛いのかと思い知らされ、余りに疲弊させられ、西村賢太に腹を立てていた。
何んで死んじゃうんだよ?、と恨めしがっていた。
畳の部屋の押し入れには、段ボールがぎっしり詰まっていた。
会わなくなってから3年以上、東京の家が狭いからと預からされたままだったが、段ボールの中は検めたこともなく、中は本だとしか知らなかった。外側の「どうで」や「苦役」といったメモ書きから、出版時に出版社から送られてきた新刊だろうと察していて、また多分、西村賢太のことだから、それは美本なのだろうと思ってもいた。
古書ばかりの詰まった段ボールもあって、私が知っていて思い出せるのは堀辰雄ぐらいだったが、こちらは押入れに入りきらず畳の上を占領していたのを、少し前、2021年の10月から年末にかけて20箱以上もヤマトで送り返していた。
…確か、押入れには今東光のだというお茶碗があったはずだ。
東京から届いて本人が整理していたときだかに僅かに聞いていたところでは、藤澤淸造と同じ下宿先にいた東光であれば、その手が淸造に触れたこともあっただろう、その掌が作った茶碗だから購めたのだ、ということだった。
「腕相撲なんかしてるかもしれねえからな」ということだったが、見せてくれたことはなかった。
何んで死んじゃうんだよ。そうだ見とけ、あのお茶碗、見てやるからな、そういう気持ちで、押入れを開けると、東京のデパートの紙袋に入ったそれはすぐ見つかった。
正座して畳に置き、初めて紙袋に入った桐箱を覗き込むと、何んと箱蓋に私が見たのは、「閨怨」という銘だった。
「閨怨=女の怨み!!!」と読んだ私は、何んでだよ、何んで今私が怒ってるのが分かるんだよ、と鼻水を吹き出しながらゲラゲラと、泣きながら笑った。
今東光、ありがとう。
紐を解き、お仕覆を開き、初めて手にしたその茶碗のほうにも、デカデカと「閨怨」と彫ってあった。
丸い手びねりのお茶碗は、その釉薬の凸凹具合がおどろおどろしいと言えなくはなかったが、素朴さのほうが勝っていて、どこかのほほんとしていた。
そして、先生、女の恨みを何んやと思うてますのん?というような、もしかしてけんけん偽物掴まされたんちゃいますのん?というような字体だった。
2022年10月、今東光資料館の方が、東光の陶芸にまつわることを調べてみたら、川喜田半泥子と行き来があって、半泥子の千歳山窯という窯場へも出入りしていた、当時展覧会も開いていて図録があるから、とそのコピーを送ってくださった。それには、誰かに轆轤を引いてもらって絵付けだけしたような器ばかりが載っていて、手捻りの作は一つもなく、作風の似たものは見当たらなかった。
骨董屋さんに尋ねたところ、如何に今東光でも、お茶碗の作り手としてはわざわざ贋作が作られる程のことはないから、恐らく本物でしょう、とのこと。
藤澤清造に触った(かもしれない)今東光が作った(かもしれない)茶碗。
だが真贋の如何より何より、けんけんが、亡くなってからも私を笑わせてくれたお茶碗である。
後から知ったのだが、銘の「閨怨」は同名の漢詩に由来しており、その内容は予想に反して全くドロドロしたものではなかった。
川喜田半泥子
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