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月刊『Hanada』2025年2月号②

  何やらエラく褒めてくだすっているのですが、、、過分なお言葉です↓↓↓
 ありがとうございます。

 まあ、「素人ながら」「素人にしては」上手い、というだけの話で、下駄を履かせて頂いているのは、そんなもの、重々承知している。

 とは云え、長年、編集に携わってこられた、出版業界のみならず言論界でも著名な方にお褒め頂けるなどというのは、

①読者に向けたセールストーク
②私への社交辞令、私をその気にさせるためのヨイショ
③その他諸々

…をさっ引いたとしても、やはりこれはとんでもなく得難いこと、嘘みたいなことである。頭では解っている。

 何しろ私は、一体何の役に立つのかよく分からない「文学部卒」で、これを後ろ暗く、、、は言い過ぎにしても確実に肩身の狭い思いをして生きてきた。これで漸く、なんとか面目も保てようというものである。

親孝行もできた✨(ことにする)

 ところが、、、それは一生懸命書いたには違いなので、嬉しいことには違いないのだが、嬉しいがしかし、、、どうにも今一つ、他人事に感じられてしまうのだ。

 それはやはり、そもそもけんけんが生きていたら、こんなことになっていないからだ。全てはそれに尽きる。

 たしかに「西村賢太」の四文字が活字になり、雑誌の表紙に載りして、人目に付くことは、これだけは、ハッキリと確実に喜ぶべきことだし、あちこちの書店でその四文字を眺めては一冊ずつ買い歩くこともできはする(『雨滴は続く』みたい)。
 そうしてこれは、こんなにして雑誌の表紙にまでなっているのに母親以外の誰からも感想の一つも言われない、というところまでがセットである。

 そうして、師走の足音と相俟って、これがまた一層の寂寞とした虚無感を煽ってくるというのだ。

 いつの大晦日だったか、遅い時間にスーパーで、安売りの始まったお節の食材を買い込んでレジの列にいた私たちの目は、前にいた男の人のカゴの中身に一瞬、釘付けとなった。

 見てはいけないもののような、目を背けたくもなるようなそれは、しかし、いさぎよいと云えば余りにもいさぎよく、強烈に私たちの吐胸を衝いてきた。

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