HSP気質とエゴイズムの狭間で煩悶して病みました。(大学休学に際して)
こうやってきちんとした記事を書くのは久し振りになりました。
どうも芭蕉です。
現在の僕
休学してからもう3か月程経っているのかなあ、と何となく時間を浪費している感が否めない今日この頃です。
実家に帰りまして受験生に舞い戻っています。
周りの友達はもう夏休み目前の輝きをまとっているようで、自分がみじめに思ってしまいますね。
現在、抑うつ傾向が続き、久しぶりに心療内科に行く予約をしました。
(以前書いていたかは忘れましたが、高校二年生の頃にうつ病と診断されて心療内科に通院していました。このことについては、また機会があれば記事を書こうと思います。)
地元に帰ったこと
大学に通うために関東へ移り住みましたが、休学を決意して最早そこに住んでいる必要はなくなったので実家へ帰ることを決めました。
関東圏から帰ってきたのもあって少しだけホテルにいました。
ホテルについてから勉強でもしようかなあ、なんて考えていたのですがなぜか勉強が手につかず、持て余している時間が多分にあったのでついつい考え事をしてしまいました。
「親に学費を払ってもらったのに休学してしまったなあ。 親には迷惑ばっかりかけ続けてる気がして、自分は何も成長できていないなあ。」
「同じ学部の他の人は自分と違って大学生をしてるし、自分だけが弱いのかなあ。」
「好きなアイドルがライブやってるなあ。自分があの大学を選んでなければ、バイトとかもできてただろうし、このライブにも行けたんだろうなあ。」
と、今の自分が生きている意味(といったら大袈裟に聞こえるかもしれませんが当事者にとってはそういう風に感じるものなんです)がわからなくなりました。
考えてしまったこと
自分の生きている意味、そして、これからを生きる意味。
大学生になったらやりたいことが沢山ありました。
それは大人になったらできないであろう事だし、大学生の時期だからこそそれをやって意味がある、と考えている事ばかりでした。
バイトもそうだし、いろいろな本を読むこと。そしていろいろな人と出会うこと。
(書いていて思うのですが、いろいろな人、事に出会うことがしたかったんだなあ、と思います。)
モラトリアムだからこそできることばかりでした。
そして、大学生としてモラトリアムを享受するとは、このような事を行う時間を与えられること、と要約できるのかなあと思います。
でも、僕の選んだ大学ではそんなことは無理でした。
ブラック企業のノルマ並みに課される課題(他大学の物理学科と比べても二倍以上あったような気がします)。しかもそれは必修なので、それをやらなければならないという義務。
自由を得るために向かった先には、自由を奪い取る悪魔のようなものが居ました。
いったん戻って他の道に進むという選択肢を選んだ人は僕しかいないと思いますが、残っている人は幸せなのかなあとも思います。
(これは哀れみの感情ではなくて、大学生として他にも経験できることは沢山あるのに、それをほとんど失って勉強だけに打ち込むことは、後悔をしないとは言い切れるのかな、というような思いです。
もちろん、勉強だけをしたいという人もいるのでその部分について否定しませんし、その人にとっては良い大学を選べたんだなあという祝福の思いがあります。)
失望と絶望
自由を奪われるだけなら、他の大学に編入したり、他の学部に編入したりと選択肢は他にもあったと思います。
ですが、そこにはもう居れない、我慢できないと思うようになった出来事がありました。
必修の授業を担当している教員(准教授の方だったかな)が授業中に発した一言が、僕の存在や尊敬している人を侮辱、軽蔑するような言葉でした。その言葉については詳しく覚えてもいないのですが、かいつまんで書くと
「どの式を暗記すればいいですかとかって聞きに来ないでね。そんな、言ってしまえば文系みたいな考え方はしないでね。」
という風な感じでした。(しかも半笑いで)
周りの人はこれに同調するように笑っていました。(もちろん笑ってない人もいましたが6割ほど笑っていたように思います)
その言葉を聞いて、驚きと絶望を感じました。
一つは、受験が終わってからも未だ文系、理系で人を差別してしまう人がいること。(しかもそれが教員!)
一つは、それを是とするように笑う人たちが周りに多くいること。(イジりとして言っていたかもしれないですが、イジりはお互いの関係性が築けていないと成立するモノではないし、そうでないイジりは唯の侮辱です。)
僕は小説が好きで、それを書くことを生業としている人たちを尊敬しています。また僕の友達には文系学部にいる友達が沢山います。そしてその人たちは人間として素晴らしい人です。
だからこそ、文系理系で世界が分かれることがないことも理解しているし、理系学部に通っていない人にだって優れている人は沢山いるということも理解しています。(理系文系で優れているかなんて分けることは無意味だということです。)
しかし、大人になっても色眼鏡で人の優劣を決めつけてしまう人がいるし、何より教壇上という公であるはずの場所で差別的な発言をしてしまう大人がいることに絶望しました。
そんな人に自由を奪われている現状に嘆き、そしてこの人から学べることはないに等しいことを思いました。
エゴイズムとHSPの部分
周りの友達には、あまりこういう風に考えているひとはいませんでした。それは、やりたいことが何か、どれくらいあるのかの違いもあると思います。
ですが一番に違うと思っているのが、自我について考える頻度や、それをどのくらいメインに考えているかの違いだと思います。つまりエゴイズムです。
僕は中学二年生の頃に自分がやりたいことが何なのか、そして自分は何なのかについて初めて意識しました。そしてその頃大いに悩みました。(これがアイデンティティーの拡散だと知ったのは高校二年生に受けた倫理の授業です。)
これを経てアイデンティティーを意識し、それがどのくらい自分に大切であるのかを知りました。
自分が行動する際に常に多かれ少なかれ判断しますが、その時に強く意識するのが
自分がそれをして意味を見出せるか
自分がそれをして恥をかかないか(自分を許せるか)
です。
自分のことばかり考えているように感じるかもしれませんが、後者について考える際に「他の人に迷惑をかける自分が恥ずかしいと思う」というふうな考えが起こるので、意外にもエゴイズムは他人を蔑ろにすることはないと思います。
(自己中心的な考えとエゴイズムは違うのでそこを意識していただきたいです)
僕はエゴイストなので、何をするにもこのことを考えます。
なので、自分を意識できなくなったら何も出来なくなります。
そして、常に自分の意識を持ちだすので何かと考えがちです。何気なく言われた一言、場の空気感など。これらを常に意識しています。そして、それらについても考えこんでしまいがちです。
今話題のHSP的な感じですね。(HSPってどうやって判断するのかわからないので、HSP的な人と自称してます。ちなみに診断テストではおよそ中~高のHSS型HSPでした。)
HSPの人は自己肯定感が低いと書かれているのを見ましたが、自己肯定感が薄くなると感じやすい部分が顕著になってくるのもあるんじゃないかなあと思います。
とにかく、自分として生きられていない現状が嫌になってしまいました。
道徳や倫理の大切さ
今回こんな風に取り留めの文章を書いてしまいましたが、言いたいことは
自分以外の人間を認められる人が多い社会になってほしい
ということです。
人間、というから社会の中での関係はすごく重要です。
その中で認めてくれる人がいないと、もしくは否定されてしまうと自分についてマイナスな方向で考え始めてしまいます。
「そんなことで病んでたら生きていけないよ」
なんて思う人がいるかもしれませんが、敏感な人だっているし、疲れていたら尚更です。
そして、思っている以上に威力をもって聞いている人に刺さります。
どうか、わかってほしいし認めてほしいです。
最後に
まさか自分が仮面浪人をするなんて思わなかったし、ましてやひどい大人が大手を振って生きている事にも驚きました。(仕方ないことではありますが)
人のことを思いやることができる社会であってほしい、という思いと、素晴らしい次世代を担わせてもらえるような自分になりたいという希望のような目標が芽生えました。
この思いを忘れずに、次の大学では様々な経験をしたいと思います。
つたない文章を読んで頂きありがとうございました。
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