見出し画像

ファミコン探偵倶楽部 笑み男 レビュー

久々にゲームクリアしたので感想をメモしておこう。

ディスクシステム版をリアルタイムにファミ探1,2をクリアした身として、35年ぶりの体験を思い出補正とともに新作を作ってくれたお祝いとしてフルプライス!買いました。(チケット使ったけど)

レビューといっても面白いかどうかの評価はアマゾンレビューなど、いろんなところでなされていると思うので、個人的な評価をさくっと振り返りつつ、この作品で気づいた点について自分なりの見解を残したいと思います。

レビューとしての結論

個人的レビューまとめ

・期待感が高かったことや、あの頃感じた緊張感や空気感、謎解き、衝撃なシーンなど、(加齢による…)感情の劣化を差し引いても期待外れ感は正直あった。
・実際プレイ時間はノベルゲームとしては長くない部類のゲームだと思うのですが冗長な部分が目立つ印象を持った。
・過去作から、グラフィック面などパワーアップされた部分が引き起こしたトレードオフをいくつか感じたこと。

少しネガティブなレビューになってしまいましたが
良質なストーリーとフルボイスでリッチなアドベンチャーゲーム体験としては満足な内容でした。
ただ、プロダクトとしてはフルプライスだと今の相場感からするとちょっと高いかな。という印象のゲーム。

ということで、本題に入っていきますが

レビューの最後に記載した現代版ファミ探になってグレードアップしたことによる「トレードオフ」が発生していたのではないか。という視点で見ると興味深かったのでそのあたり考察してみたいとおもいます。

気になった点の考察

トレードオフによる良くなったところと悪くなったところ

今回これをすごく感じてしまった理由として

・システムの慣れによる退屈感
 昔は新鮮に遊べたけど、今やると単調に思えてしまった箇所であり、強化されたリッチな作り込み部分にコマンド総当たりのシステムが追いついておらず単調に見えた。

・フルボイスによる会話の冗長さ
 会話量自体がどのくらい違うのか分からないが、フルボイスになったことで会話スキップに抵抗が出るので文字を追うだけだった速度感で進まないテンポ感が悪くなった印象。
フルボイスだからという理由でセリフの作りも多少影響を受けたのではないかという気もする。

・グラフィック向上による想像欠如
 
ファミコン時代の絵ってしょぼいんだけど味がありますよね。
これの説明としては、色数も解像度も低かった表現の場合は絵をある程度記号化する必要があり、詳細な細かい部分は端折って作られてるんですよね。
簡素化して作られている絵だからこそ、プレイヤーの想像性と合わせて作り出す印象というのが間違いなく武器になっていたと思います。

リッチな絵だからこそ”リアル”を感じられるのですが、記号化された絵から”想像するイメージ”には実は勝ててないんじゃないかと感じた。
その良さのベクトルは違いますが、アドベンチャーゲームとはある種の小説を読むような面白さがあり、テキストから足りない部分を自分の頭の中に作り上げて楽しむことも大きい。
だからこそ、簡素な作りであるファミコン版のようなシンプルなドット絵から想像で補足していく印象が薄れたことで絵のリアルさではない”リアリティ”みたいなものが欠如してしまったのではないかと考えた。

ちなみにファミコン探偵倶楽部Ⅱのシーンをいくつか




こうやって絵だけ並べるとしょぼさが際立つのですが

この色数の少なさで表現する無骨なイメージ。
そこに流れるテキストの音。
さらに臨場感を掻き立てるBGM。

常に緊張感が伝わってくるこのリアリティ。

こういう感覚が最新作からは感じられなかったのは
上で述べたようなリッチ化による弊害なのかもしれないと感じる。

実際は、子供の頃に体験した思い出補正や様々なゲーム体験のなさなど
受け取る感覚値としては違いがあり絶対比較はできないものの
少なくとも今見てもファミコン版から感じられる臨場感は本物です。

そこにはなにかトレードオフになっているものがあるんだろうなと。

ちなみにポイントとしては
・フルボイスがもたらしたネガティブトレードオフが大きかった
のではないかと思っています。

登場人物の話し方によって、いわゆるリッチさは格段に向上しエンタメとしてのクオリティは高く楽しく遊べたわけですが

人物の声色、話し方、トーン、性格など

ボイスには様々な付加要素が紐づいてきます。
先ほど話したように小説のようにお話に合った解釈を自分なりに想像していく楽しみ方は排除され
明確に登場人物のキャラが立ち上がってしまいます。

過去作から感じた緊張感のようなものがゲーム全体から薄れてしまったのは
人物の会話によって”想像によるリアリティ”が欠損してバランスを崩してしまったからではないかと。

これは声を当てられた方たちの演技云々ではなく(多少合わない部分とかはあったかもしれませんが)
「リアリティをプレイヤーの想像に任せず」に臨場感をちゃんと伝えるためには、すべてのクオリティを均等にするためにキャラやボイス以外の部分も強化してバランスをとる必要が出てくる。

キャラが2Dアニメでヌルヌルと動いてはいましたが、キャラだけがこの世界でリアルさを追求され、そこに存在する臨場感というリアリティ、音や背景、動きや空気感などの臨場感不足との乖離が粗となって違和感を生む阻害要因になったのではないかと考察してます。

「いやいや、背景もきれいだし、BGMも良かったよ」
という声も聞こえてきそうですが、このくらいキャラのリッチさを優先してしまうと、受動的なコンテンツである映画に近づく(極論の話しですが)ことになるので
キャラ以外もちゃんと情報を伝えるために同等のリッチさを求められることになる

でも、結局それって見てるだけのもう動画でいいよねってなる

ということは、
アドベンチャーゲームってどこかで「小説らしさ」を残すことが楽しさを残す手段だったのではないかと、チープな方法だからこそ味わえる楽しさがあったのではないかと。

ただ表現方法がリッチになっていくだけでは面白さがプラスになっていくわけではないとこの作品を通して感じたことでした。

あくまで個人の見解ですので全然間違っているかもしれません。

作品自体はしっかり楽しませてもらったことは確かですが

こういった、解像度を上げて考察しないと見えてこないゲームの分析をしておくことで
また、今後のゲームの考察の楽しみとして繋がってくることもあるでしょう。

とりとめないですが今回は以上です!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?