凶暴な悲観論と繊細たる人種
年配者層において、男女問わず、シニカル…もとい、“とりあえず否定しておきたいだけ”の人の、世の中になんと多いことか。
「今の若い子って、ホント駄目だねぇ。すぐ根をあげるし、根性ない」
「今のテレビ番組って、本当にくだらない。昔はもっと面白かったよ」
「最近の政治家はだらしない。昔はもっと本物の代議士がたくさんいたよ」
「いや、そんなのうまくいくわけねぇよ」
「どうしてこんな世の中になっちまったんだ」
中高年の人が多く勤務する職場に勤めている人や、親戚付き合いを律儀にこなしている人であれば、そういった否定発言に出くわすことが多いのではなかろうか?
もちろん、若年層にもネガティブ思考の人もいるが、口を開けば皮肉や否定語を繰り出す人はやはり年配者層に目立つ。それは、歩んだそれまでの人生で様々な出来事を見聞きし体験してきたからであろうが故の、彼らなりの態度なのかもしれない。
そういった、否定的な発言ばかりしている年配の方々によって、彼らの周囲に存在する「繊細たる精神性を有する人」は、その否定発言で疲れているという事実は、よりもっと多くの人に周知されるべきであろう。否定語は、聞かせる相手が同じ否定論者や悲観論者であるならば共感と共鳴を生むかもしれないが、しかし温厚で争い事を好まない繊細なメンタリティを有する人にとっては、そのネガティブな会話はただの疲労要素でしかない。そう思うのには訳がある。私も、私の妻も、そして私の身近にいるデリケートな人も、文句ばかり言っている人と接していると、大抵疲れているからである。
近年。繊細さん、HSPという言葉をよく目にするようになった。書店に行くと、この手の本をよく見かける。Amazonで「繊細さん」と検索すれば、類似書籍が多くヒットする。
単にgoogleで検索するだけでも、その手の記事はゴマンと出てくる。
私や私の妻を含め、繊細な性質が各自共通に見られる複数の個体において、否定語に対する反応について同様の傾向が見られれば、帰納法的に考えれば「繊細な人」は否定語に敏感で疲れやすいのは事実なのではないか。彼らの否定的論調、第一声からの否定語に今日も振り回され、疲労困憊して帰宅する。
当事者である自分も含め、「いや、繊細すぎるから」「いや、それは勝手な思い込みだから」「いや、科学的根拠が乏しいから」と否定的に応答されることを覚悟し、そして勇気を持って声をあげることこそが、あるいは声を上げ辛いのであれば文章に起こすことこそが、繊細たる人種が暮らしやすい環境を築いていくための一助となると思いたい。
さて。
彼らの“とりあえず否定しておきたいだけ”の発言の影響を受けるのは、本当に繊細たる人種だけなのだろうか?
彼らの発言によって、若年層全体に影響はないのだろうか。軽薄で粗雑な、ただの思いつきに近い否定語が、繊細たる人種など通り越して、より多くの若い世代の将来に悪影響を及ぼしていないかが気がかりなのだ。今を生きる若い世代が中高年層になった頃、暮らさなければならない未来の社会が、彼ら否定論者の独りよがりな悲観的妄想の世界に置き換わってしまうのではないかという危機感すらある…その未来には、当の否定的な予想発言ばかりしていた彼らは、寿命等で死亡しているにも関わらず。
彼らは、やれ政治がどうだの、やれ現状の新型コロナウイルスのワクチンがどうだの、やれ経済や金融がどうだの、やれ国防がどうだの中国がどうだの、ろくに調べもせずにどこかで聞いた話を評論家にでもなったかのような口ぶりで、ネガティブな発言を繰り返しながら持論を展開する。先日は、医学に大して詳しくもないのにも関わらず、ネット記事等で聞き齧ったであろうワクチンの有効性ないし危険性について批評する50代の女性に出くわした。
さらにはこうした全国的な・全世界的な事象のみならず、もっと卑近な事柄…例えば自らの家族、親族、地域コミュニティに対しても、いちいちケチをつける習性がある。「最近の若い奴はやる気がない」「最近の若い人は自治会町内会に入りたがらないからダメだ」と、私と同じ部署の60代男性職員は嘆いていた。
きちんと筋道立てて客観的に批判するなら建設的な議論だが、しかしそれが「ワクチン接種行為」や「若い人そのもの」をとりあえず否定しておきたいだけの場合、聞いていて不愉快以外の何ものでもない。挙句、「このままだと将来はこんなに悲劇的なことが起こる」と、預言者にでもなったのか、未来に訪れる顛末を「俺/私だけは」予見しているかの如く振る舞う場合は、より害悪である。
もちろん、批判という行為そのものには、楽観論ばかりがまかり通っている際はある程度の抑制効果があるだろうし、一定の危機防止にも役立つであろうから、一概に無益とは流石に言い切れない。年長者からの助言には、時代の変化に左右されない普遍的事実が含まれている場合もあり、耳を貸す意義はあるであろう。
しかし、その悲観的顛末の予見とやらを周囲にぐちぐちと述べ、近しい場所で悲観的ムードを醸成することに問題があるのである。さらには、周囲を巻き込みながらその悲観的ムードを拡大し拡散させていくことが、現在我が国や地域社会の随所で見え隠れするペシミズムの一端を担っているのではないか。
スマートフォン等の情報端末の普及と各種SNSの発達によって、各人の意見の弁達の速度はますます上昇する一方である。彼らの言動がSNS上の発信者に伝播し感化され拡散され、悲観的なムードを醸成することの後押しをしているのではないか。さらには、悲観的な雰囲気の形成の一端を担うだけならまだしも、醸成された悲観論によって、結果的に地域や国家の衰退の遠因になっているのではないかとすら思えてくる。それはつまり、「本来はもっと良いはずだった未来」が、醸成された悲観的ムードによって実現が妨げられ、彼らの独りよがりな予見どおりの顛末にいつしかすり替わってしまうのではないかという危機感である。所詮は現在の悲観論者の妄言でしかなかったはずの空想上の結末が、あろうことか彼らが亡くなった後の未来世界において現実化しているという皮肉である。
この悲観的妄想の現実化に対しての危機感は、私の突飛で無根拠な奇天烈な一個の空想なのかもしれない。しかし、ごくありふれた、一個一個は大したことがない悲観論が、いつしか大きな渦となって、世界を覆う凶暴な悲観論に変貌を遂げる可能性もありうるのではなかろうか。
「どうせ次の首相に誰がなっても、政治なんか変わらない。」
「どうせ日本経済は、有効な手立てもなく失われた40年、50年になっていく。」
「どうせ将来、国家財政は巨額の財政赤字でいつか破綻する。」
「どうせ地方の社会は、人口減少で消滅する。」
「どうせ賃金は上昇せず、日本人は皆貧乏になり続ける。」
「どうせ新型コロナウイルス感染症は、収束しない。」
「どうせ首都直下地震や南海トラフ地震で、都市機能は壊滅する。」
「どうせ若い人は地域を出ていくから、もうこの地域は終わりだ。」
「どうせ子供を産んでも、ひとり2,000万円近くの金がかかるから大変だ。」
「どうせ結婚しても、幸福になるとは限らない。」
一個一個はありふれたネガティブ発言が、いつしか束となっていき、例えば「もうこの国は終わりだ」「もう終わりだよこの国」といった、粗雑で軽薄な放言に集約され、結果、根拠のない肥大化した悲観論となって、将来本当に現実化してしまうのではないかという危機感を抱くのである。
特に、私のような繊細たる精神性を有する人種は、彼らの発する否定語に敏感である特性故に、聞き流しそうな小さな否定的発言にも気付きやすい。我々「繊細たる人種」が危機感を持って彼らの産んだ「凶暴な悲観論」に対抗していかなければ、未来は悲劇的な世界になっているかもしれないのである。
………と、ここまでつらつらと書き殴ってきた私のこの文章も、よくよく考えて見れば、結局一個の悲観論でしかなかったことに気づく。悲観論に対抗して悲観論を弄するという矛盾に、片腹痛いと失笑する。
もしかしたら、人は所詮、悲観的な思考に陥りがちであり、だからこそ世代問わず、繊細である人もそうではない人も、楽観的な心持ちを忘れないよう心がけることしかできないのであろうか。
かの三島由紀夫がかつて『小説家の休暇』の中で、同じ小説家である太宰治に対して述べた文章を想起する。
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。
私のような繊細な脳細胞を持つ人は、ウォーキングやジョギングのような有酸素運動、無酸素運動、体操やストレッチ等で定期的に体を動かし、鍛えた健全な肉体をもって規則正しい生活を送ることで、この「病的なおびえ」の状態に陥らないよう、努力するしかないのだろうか?
繊細たる人種に問う。