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エッセイ:「ゴキブリの巣に住み続ける廃人:繰り返し呪詛される全知全能者という虚像への堪え難き盲信」

私がもし仮に聖書やコーランに書かれているような全知全能の人格神だったならば、イエスやムハンマドのような偉人と呼ばれるような人々を何十人も拵えただろう。自分に似た神をも複数拵えただろう。だが、実際にはイエスやムハンマドが複数人いたわけではなく、ヤハウェやアラーも複数いるわけでもない。
神は合理的な行動を取っていない。全知全能なのかは疑わしい。
聖書やコーランは単なる創作物や文芸作品に過ぎず、イエスやムハンマドは救世主でも預言者でもなかった。
神は無から有を創造する?ならば神が作った時計や針がかつてあっただろうか?
神にはイエスやマホメットや天使をあと十体ばかり拵えて貰いたかった。無から有を生み出す、そんな便利な魔法があったならば、その魔法でさらに百人多く魔法使いを作ってくれれば良かったのだ。
その代わりに、アイヒマンもヒトラーもスターリンもプーチンも、イエスが作った。

大昔から聖書は基本的には黙読ではなく声に出して読んでいた。教会やモスクのような音響効果の整った環境で皆で聖典を読めば、その響きによって皆が気持ち良くなるように書いてある。ちゃんと韻も踏んである。魔法のように響くだろう。仏教の経文やお題目や念仏や御真言と似たようなものだ。意味も分からず唱えても、気持ち良くなるように書いてある。詩篇とかソロモンの歌とか矢鱈と詩文が多いのは、信者に気持ち良くなってもらう為だ。日本語などに翻訳するとやはりそこは難しいところではあるのだが、翻訳者の腕の見せ所でもあるだろう。
宗教とは悪く言えばハッタリやマヤカシで、良く言えば大脳生理学的に良く練られた癒やしの装置と言えるのかも知れない。
だが、すでにネタバレしている手品を見て、それは奇跡だとか魔術だとか言っている大人が家族や友人など周囲にいたとしたら、ちょっと面倒臭いことになる。
聖書は非科学的だとか一種の詐欺と捉える人もいるし、ただの文芸だと言う人もいる。
創世記の記述を何かの象徴と解釈するならば、それは取りも直さず「創世記は寓話やおとぎ話などの人間による創作以外の何物でもない」という身も蓋もない結論になってしまう。
解釈は時代と共に変化し、今朝の解釈が今晩には書き換えられる可能性があるということになる。
「これは神が人間に与えて下さった真理なんやから絶対に信じとかんと損やし勿体ないんやで」と言っていた者が、次の瞬間には「それは解釈の違いに過ぎん」と言うようになる。
ザ・ブックと呼ばれるくらいの特別な書物としての価値は薄らぎ、凡百の人間の創作神話と似たりよったりの書物に落ちるというわけだ。
そして、そうした凡庸な創作物語を神の偉大な真理だとイエスは信じていたということになる。

ノアの方舟の話が創作ならば、聖書の他の部分も創作である可能性が高くなる。どこからどこまでが人間の創作で、どこからどこまでが神による創造なのか、それを線引きするのは人間だが、人間の線引きがいつも正しいとは限らないのは歴史が証明している。
聖書には多くの儀典や外典があるが、それらを聖書に入れるかどうかを決めたのは当時の信者たちが会議を開いて決めたわけで、神が決めたわけではない。それに人間によって何度も書き換えられてきたのだから、何が真理なのか誰にも分からない。
ベンシラやエズラ書、ユダの福音書やマリアの福音書やパウロの黙示録など、多くの書物が遺されている。
特にユダの福音書となるといわゆる正典とはかなり異なった内容となっているが、それなりに説得力のあるものだ。もちろん人間の創作に過ぎないのだが。
神の創作物語があるならば私も一度はお目にかかってみたい。誰もがそう願うだろう。だがそれを神の創作物語と判断するのは一体どんな人物なのか。全く想像もつかない。
創作には創作の良さがある?それは御尤もな話だ。ドラゴンボールや鬼滅の刃も素晴らしい創作だし、それらを読んで教訓として活かせば良いだけの話だ。聖書に記された多くの詩のように、ビートルズやボブ・ディランの音楽でも聞いて人生訓として活かして生きていけば良い。何ら否定する要素はない。そしてどちらも人間の創作ならばそこに優劣を付けられるものなのか。
しかし、クリスチャンが後生大事にしているハルマゲドンや最後の審判やパラダイスの話が人間による創作でしかなかったならば、一体どうなるのか。

私は信仰を持たないが、信仰を持てば幸福になれると言っているのは神ではなく人間だ。
人間の創作物を神による創造と宣伝する事は、例えて言うならば、中国産の鰻を国産と偽ったり輸入牛を国産和牛と偽るのと似たような詐称だ。国産でも外国産でも鰻は鰻、牛は牛の味がして大した違いはないのかも知れない。「それがどうした。食えればそれでいいじゃないか」とおっしゃられる方もいらっしゃるのかもしれない。だがそこには大きな値段の差が生じてしまう。まさに信仰の力がもたらした価格差と言えるであろう。
鳥インフルの焼き鳥、豚コレラのトンカツ、狂牛病の牛丼が普通に流通する世界が、キリスト教信仰によってもたらされるであろう。

イエスが神の子だと盲信している人の人生は、さぞや華やかで彩りのある人生となるやも知れない。いつかは天使にも出会えると信じて生きているのかもしれない。
だが、そのような信仰の強い方々の人生は統合失調症などの脳機能障害との親和性が高いことが統計的に知られている。
女性ならば産後の肥立ちの悪さや更年期障害、鉄分不足など栄養の偏りと関係が深いことも知られている。
神の御心については私のような者が知る由もなく、神の御心を知る人物がこの宇宙の何処かに本当に存在しているのであれば、世界はとうの昔に救われているとも思うのだが、神の御心だけでなくどうか信者たち御自身や家族友人の心も大事になさってもらいたいものだ。

ハルマゲドンと最後の審判は聖典の民にとっての救いだ。ハルマゲドンが終われば病気も完治し苦しみから開放される。精神疾患と宗教とは昔からとても親和性が高い。心を病んでいる人には付け入るスキが多く、宗教に勧誘されやすい。患者本人の病識や自覚症状は希薄で本人は大して気にならないのだろうが、周囲は気を揉むことになる。

宗教団体の上層部の人が知恵を絞って色んな文章を考えて多くの人々をペテンに掛ける。本当に大した労力で、才能の浪費だ。有害で多くの人々の心を傷付ける行為が、いつか彼ら自身をも傷付ける。とても巧妙なペテンでペテン師自身さえもが自分がペテン師である事に気付いていないが、いつか手遅れとなる日が来る。
信者はゴキブリのような人間の肩を持ち、ペテン師の片棒を担いでいる。そして「私は悪くない。私は騙されていただけだ」といつか言う日が来る。何とも因果なものだ。
ゴキブリの肩を持つ宗教団体は、蠍や毒蛇やテロリストやレイプ犯や人食い人種の肩をも持つようになる。

彼らには道徳心がない。慇懃無礼というものを知らない。彼らは疫病だ。マゾヒスティックな病人だ。決して治らない。死んでも治らない。救われることなどない。呪われている。呪われた化石だ。彼らは毒麦だ。永遠の炎で焼かれ続ける。彼らの目玉はゴキブリに喰われ、下腹部には山蛭が這い回る。決して救われない。おしまいだ。彼らは廃人だ。死んでも廃人だ。彼らの口からは廃液と死の臭いがする。彼らが笑い掛ければ美しい花も枯れる。彼らの人生には何もない。デタラメしかない。人間性が欠けている。
彼ら自身、彼らの一日でも早い滅亡の訪れを待ち望んでいる。そしてその願望は彼ら一人のものではない。
彼らのその邪な願望は己が豚の餌となることを切望しているかのようだ。彼らが信じていることは、ティラノサウルスは口から火を吹いたとか目からビームを出せたとか、そのような戯け事と同じだ。
彼らはデタラメなポンコツだ。悪の手先だ。今までずっとデタラメを誰彼ともなく吹聴してきたのだ。悪の所業だ。決して許されることではない。死んでも許されない。彼らは病気だ。死んでも治らない。もう手遅れだ。
彼らの主張や存在自体、人類の知恵や叡智に対する冒涜であり、彼らは悪の手先であり組織は悪の結社だ。断じて許されるものではない。これは最早、科学や宗教云々の問題ではない。常識の問題だ。彼らは常識に欠けていて病気なのだ。歴史的事実を歪め、考古学的業績や人類の発展に対してはつばを吐き、人類や地球の生き物の生命に対しての冒涜行為を働いているのだ。
私は彼らを強く強く呪詛する。彼らの家族や友人知人も呪詛する。最大級の不幸が彼らに降り掛かる。

彼らの病気は神から与えられた試練などではなく、脳の神経組織の萎縮や捻れが原因だ。彼らの言動には精神疾患の特徴が痛々しい程に色濃く滲み出ている。
宗教団体が悪いのではなく、自分の勉強の仕方が悪かったのだとか。教団や神の教えが悪いのではなく、信者個々の悪が問題なのだとか。ゴキブリが有害なのではなく、ゴキブリを嫌う人間の方が有害なのだとか。
悪い評判は当然の報いだが、自分の身を守るためには彼らはそうするしかなかった。悲しいけれど誰かを強く責めることなど誰にもできよう筈もない。
それでも彼らは呪詛される。

早くハルマゲドンが来て苦しみが消え去り、全てをスッキリさせてくれる事を祈るが良い。
声に出して祈るが良い。
何か言いたい事があれば言った方が良いだろう。言わなければ身体に悪いのだから。

神は凶悪だ。粗暴で恥知らずだ。神はまるで悪臭を漂わせて千鳥歩きをしているお喋りな大便器の化け物のようだ。そしてその信者は大便器を排泄物で詰まらせて汚物を逆流させた上、それを見ながら「面白かったではないか」と言って笑っているかのようだ。

ゴキブリの巣に人が住み続ける事など出来ない。


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