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「建築を語る」を通して、医療を語る

はじめに

 2024年9月6日から読み始めた安藤忠雄の『建築を語る』は、在宅医療ことはじめの第1回 講演の吉村先生からのおすすめで手に取った一冊です。
 私自身、医師になっていなかったら、建築家になりたかったという性分だったので、非常にワクワクしながら読み進める事ができました。本書は建築という行為を通じて、社会や人間に深く向き合う思考の重要性を説いています。以下に、本書から印象深かった箇所と自分の中で学びとなった部分を記録し、一丁前に自分の医療観を書き留めてみます。


1. 建築とは「旅」である

 私も大好きなル・コルビュジエが、若き日に旅を通じて多くを学んだように、安藤忠雄にとっても「旅」は建築を理解する唯一無二の方法でした。

旅=思考の深度を深める「自分との対話」

 物理的な移動に限らず、回想や夢想による旅も含まれる。「旅」を通じて、余分なものが削ぎ落とされ、自分の本質と向き合うことができるのです。

ル・コルビュジエは、建築家としてのスタートを切る前。20代の時に西洋建築の根源に触れる長い旅に出ており、著書のなかでいかにその旅から多くのものを得たか述べています。
私にとっても「旅」こそが唯一最大の教師でした。
建築を真に理解するには、媒体を通してではなく、自らの五感を通じてその空間を体験することが何より大切です。しかし「旅」はそのような実際の身体的移動を通じてだけではなく、回想、さらに夢想することでも可能なものです。「旅」とは、惰性的な日常を離れ思考の深度を深める、自分との「対話」なのです。旅するうちに、必要のないものは切り捨てられ裸の自分と向き合う。その過程で一進一退を繰り返していく。これが一人の人間を強くしていくのです。

P11

 「旅」特に「ひとり旅」は、後の人生を豊かにするように思います。旅はその土地と向かい合っているようにも思えますが、旅をする事で普段過ごしている文脈から切り離され、自分の役割と切り離した、「等身大の自分」と向き合うことができると思います。
 等身大の自分を見つめ直すには、旅もいいですが、ジャーナリングもいいです。2024年にご一緒させてもらったZaPassのコーチング学習の同期とも現在ジャーナリングノートを題材に定期的な振り返りをしています。
 ジャーナリングは現在も毎日は行えていませんが、「旅」をする感覚もあり、いい習慣にしていければと思っています。


2. 建築における「相反する概念の統合」

 また、安藤忠雄は建築を「内と外」「歴史と現在」「抽象と具象」など、相反する要素を昇華する表現行為と位置づけています。その表現は、地理的・文化的文脈から、風土や生活文化、個人的な記憶まで、様々な要素を内包していなければならないと述べています。

私は、一つの建築のなかには地理的文脈や文化的文脈,さまざまな歴史,精神風土といったマクロな要素から個人的な体験や、何気ない一木一草が与える印象や記憶のような小さな要素に至る、風土や生活文化に根差した。人が五感で感じ取れるものが強く刻み込まれていなければならない。それが建築に課された責務ではないかと思い始めていました。

「形」を受け継ぐのではなく、そこにある目に見えない「精神」を受け継ぐことで、建築に地域,個人といった固有性,具体性を取り戻したかったのです。

P22

 建築に求められるのは、単なる形や機能ではなく、そこに宿る「精神」や「場所性」であり、均質化された世界への抵抗として、固有の文化や自然の要素を取り入れる工夫が求められると記されていました。

 これも、医療の文脈でも非常に重要にしている考えに重なります。
 ガイドライン・バンドルなど、医療を均質化して画一化していく流れがあります。もちろん、安全性の担保において「形」を保つことは医療の質の維持、管理のために大切なことです。ただ、医療現場で働いていている中で、患者さんの一言、在宅で家に行った際に触れる家族の歴史など、そういった「精神」を大切にした個別化された医療でしか救えない患者さんもいます。
 どちらかに偏るのではなく、あくまで「塩梅」だと思っています。


3. デジタル化の中でのアナログ思考の重要性

 現在、CADやCGなどの技術が発展し、デジタル化が進む一方で、「直感に基づくアナログ思考」の重要性を説いています。建築設計では、論理的な思考だけではなく、直感や五感が果たす役割が大きいと述べています。

私たちは普段ものを考えるときに,通常,一度に1つのことしか考えることはできません。私たちの頭脳。もしくは明確に知覚される意識は同時に2つ以上の事柄を論理的に思考する構造にはなっていません。

ところが実際の建築設計にあたっては、2つどころか数限りない事柄について同時に配慮し、消化して、さまざまな関係性をもとに判断を下さなければならない。その限界を超えるのが直感力の働きなのです。常に五感を働かせて,論理を超えて判断を下す。その論理的に記述できない。明確に意識できない部分にこそ、アナログ思考の無限の可能性があるように思います。

p25

 デジタルツールを活用しながらも、現実に触れ、感じるアナログなプロセスを大切にすること。五感を研ぎ澄まし、論理を超えた判断力を磨くことが、真の創造につながると記されています。

 今年、亀田の緩和ケア科をローテーションした時の腫瘍内科のレジデントをしている同期と「審美眼」について話をしたことがあります。言語化された情報、測定し数値化できるバイタルサインや検査値などを「信頼に足る情報」として日々扱っていますが、それと同じくらい非言語的な情報、測定することのできない尺度を「直感的」に把握して決断を下すこと必要であると私は思っています。
 臨床推論でのSystem1とSystem2の立ち位置においても、System2は1を補完する立場にあるように説明されることがありますが、System1が劣っているわけでもなく、本質的には両者とも必要で、System1を鍛えていくことも必要であると考えています。
 医学はArtかScienceかという文脈で語られることもありますが、医学におけるArtの要素としても、ホスピタルアートのような「癒し」だけではなく「創造的」な要素も大切にしていきたいです。
 VUCAなこの時代を切り開くのは「直観力」とも思っています。


4. 個性を生かす建築

 安藤忠雄は人を育てるというテーマにも言及しており、イサム・ノグチの言葉「石をいじりすぎると石が死ぬ」は、素材だけでなく、人間の個性にも通じると述べています。日本の教育が個性を均質化しがちな点を指摘し、建築設計においても独自性を大切にすべきだとしています。

イサム・ノグチの石の彫刻のなかには、自然のままの石をすぱっと半分に切っただけのものや、上部を少し削っただけのものがあります。彼は、石に一つ手を入れるだけでその個性を圧倒的に生かす。と言っておりましたが、これは人間にもいえることではないでしょうか。一人一人がもつ個性を潰さずに伸ばすことは非常に大事です。日本の教育はレヴェルアップはしたけれども、ひたすら個性を均質化し過ぎているように思います。一つの殻にはまることなしに、個性をよく考えて、一つ手を入れるとか,方向を変えると一気に伸びる人が大勢います。建築をつくるときにも他人の意見もよく聞かないといけませんが、よく考えて受け入れないとつくりたいものが不明確になって後で困ります。

P143

 一人一人の個性を引き出し伸ばすように、建築もその土地や文化の特性を生かすべきで、他者の意見を受け入れつつも、自分のビジョンを明確に持つことが重要だと記されています。

 医学教育も本当にその通りだと思います。日本の偏差値教育をくぐり抜けないと医学部に到達しない偏差値教育の中で、かつて目を輝かせていた学生は、徐々に脱個性化し均質化されていきます。医学部を卒業する時には「タイパ・コスパ」など「やりがい・Ikigai」とは別の価値観に染まっていることも多いように思います。
 昨今、「直美:ちょくび(医学部卒後、直接美容整形の分野に進むこと)」が問題視されていますが、本当の問題は『卒業時点で、美容整形外科に進む以外の目指したいキャリアに出会えない日本の卒前教育』にあるのではないかと思っています。
自分自身は、学生時代にお世辞にも優等生ではありませんでしたし、不真面目な部類の学生でしたが、卒業時点で「関東で学び、将来山口に戻って地域貢献をする」という夢を抱けた事は山口大学に感謝をしている部分です。


5. 若い頃の経験が将来を形づくる

 「20代の経験が50代、60代で花開く」と述べ、若い時期の学びや経験の重要性を強調しています。特に建築だけでなく、音楽、美術、文学、哲学など多様な分野に触れることを推奨しています。

今のところ自分がどこに辿り着くかはわかりませんが、あと15年くらいは全力で仕事ができるのかなと思っています。そのなかで建築を考え続けたい。20代をどう生きるか。そこには楽しいこともありますけれどもったいがいは先行きの不安を抱えながら模索を重ねる時期であり,なかなかやっかいなものでもあります。しかし、50代くらいから本当に自分らしい建築をつくり始める時、いいスタートを切れるかどうか、あるいは若い頃に掲げた理想をもち続けられるかは、20代30代の頃の興味のもち方と力の蓄え方にかかっているのではないかと思います。

P213

 若い頃に掲げた理想を持ち続け、努力を重ねることで自分らしい建築を追求する土台が築かれる。思考を深め、視野を広げるために多様な興味を持ち続けることが重要と書かれています。
 また、建築を深く理解するには、「現地で五感を使って体験する」ことが重要で、建築を学ぶ人は、ただ見るだけでなく、感じ、考え、対話を深める姿勢を持つべきと記されています。
 これは建築の世界に限らず、どの分野においても非常に大切な事だと思います。「身体性」という言葉でも表せるかもしれません。身体性について調べると、認知主体の内外で生じる相互作用と書かれていますが、自分自身の学びにおいても、教科書の文字をさらうだけでは得られない経験が、現場には詰まっていると思います。

 今年、妻とblue note TokyoのCandy DulferのLIVEに初めて行きましたが、どれだけCDを聴いても辿り着けない経験が、そこにはありました。チケットを買って、セットリストを予想しながらアルバムを聴いて、当日東京まで電車を乗り継いで、初めて入る会場の雰囲気に呑まれそうになりながら聴いたあの演奏は2度と忘れられません。
 若いうちに本物に触れることの重要さを感じて振り返りました。


6. 旅と対話のすすめ

 「旅は考える自由を取り戻すもの」とし、自分の足で歩きながら思索することの大切さを語っています。日常の情報過多な環境から離れ、独りで歩くことで得られる気づきや発見が、自分を成長させる原動力になると述べています。

 旅はいいものです。20代に、私はひたすら、自分を取り巻く現実世界の「価値観」とは異なる「何か」を求めて旅を続けました。私は旅のなかで考え、成長をしてきたといっても過言ではありません。しかしながら必ずしも物理的に遠く落れた地点への身体的移動、たとえばヴェネツィアやローマに行くこと自体が大切だとは思いません。旅に出て独りで歩くことが何より重要なのです。独りであれば旅を通じて「別な世界」を知る過程でさまざまなことに思いを巡らせ,自分で考えざるを得ない。そして結局自分の足元を振り返る、つまり自分との対話を促されるからです。

 建築は社会・経済・歴史・技術など、あらゆるものが重なりあいながらできあがっていくものです。学校で歴史の授業に出ると歴史のことを教えてもらえるし、技術の授業に出ると技術を教えてもらえるのですが、今は教えてもらう時間はあるけれども、それだけで精一杯で自分で考える時間がない。多量の情報が氾濫する現在の社会において、人は知らないうちに「考える自由」を奪われているのではないでしょうか。私は、教えてもらう時間よりも、考える時間の方が大事だと思います。独りで歩いていると。建築のことだけではなくて、歴史のこと、風土や社会のこと、いろいろなことを同時に考えます。そのあたりを全部重ねて学ぶトレーニングを若いうちからすることが非常に大切なのだと思います。

P216

 考える自由を奪われないために、日常を離れ、自分との対話を行う旅に出る。建築を学ぶ上でも、歴史、風土、社会の多様な視点を重ね合わせて考える力を養うことが記されていました。
 今の職場に移ってすぐの時は、1時間弱の車の通勤を「時間が勿体無い」と思ってラジオを流したり、podcastを聞いたりして過ごしていました。しかし、本を読んだり、コーチングをしたり、考えるテーマが自分の中に出てきてからは、「情報と切り離されて、只々考える時間」の豊かさを感じられる様になりました。
 また、考えるテーマがあると、会話が「対話」になることも増え、夫婦でのコミュニケーションもまた深みが出た様な気がしています。


おわりに

 『建築を語る』は、建築という分野を超え、医学や自己探求においても多くの示唆を与えてくれました。著者が語る「旅」「調和」「直感」「個性」「命」を、自分自身や日々の仕事にどのように活かせるかを考え続けたいと思います。

 また、皆様のおすすめの本などあれば、是非読んでみたいです。

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