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Orchestra Fontanaあとがたり

執筆者:ただのばしお

Orchestra Fontanaが終わりました。

この団体が本番を迎えるまでの経緯は、こちらの記事の通り。
「八年前」から続く因縁に決着をつけることができました。

元は僕の妄想でしかなかったこの団体が現実となり、そして終わりを迎えました。

僕の我儘に沢山の人が協力してくれて、それに対してお礼でしか返すことができないことが心苦しいと思うほど、感謝の気持ちでいっぱいです。

Orchestra Fontanaの始まりは曖昧で、僕の中ですらいつが始まりなのか分からないのに、人によって、またそれは全く違うものになっていると思います。
ただ、引き返すことができなくなったのは、尾崎先生にメールを送った去年の6月のことだと思います。

それから、本番までの間。即ち「一年と四ヶ月」のこと。
この期間、Orchestra Fontanaのことを考えていない時間は殆どありませんでした。
ゲームをしている間も、布団の中でも、自身の結婚式の間や、新婚旅行のハワイですらこの団体のことを頭から消すことは決してできませんでした。
それは、代表だったからというのもありますが、そんなことよりも僕が僕であったからと言うのが大きな理由でした。
大学に入学してから10年ほどが経ちますが、その間にあった個人的な事情がこの団体に対する情熱の源泉となっていたことは間違いありません。

代表としての自分ではなく、ただの一人の個人として、何を考えていたのか。

建前の無い私個人の想いは、美しい思い出に水を刺すかもしれませんが、最後まで読んでいただけるとありがたいです。

自分の演奏技術

バイオリンと指揮について。
大学から楽器を始めたにしても、僕の演奏技術が向上したのは、随分と遅れてのことでした。

学生時代、二年間学生指揮者を務めていましたが、その最後の演奏会は正直満足のいくものではありませんでした。
「何か」に敗北し、「何か」の責任を取るため、オケを辞めようと思っていました。
その時は「何か」の正体が分かりませんでしたが、今となっては「自身の無力感」であったと分かります。

僕の「敗北宣言」に対して、本気で向き合ってくれたり、笑い飛ばされたりと反応は様々でしたが、誰もが僕がオケを辞めることを止めてくれました。何の目標も無いままではありましたが、周りの人のお陰で、惰性ではありながらも、オケを続けることができました。
「いつかオケを続けていれば良いことあるよ」という言葉が僕をオケに繋ぎ止めてくれました。

ターニングポイントは同期の企画したラフ3の企画オケでした。
修士一年生の終わりというタイミングですら、僕の演奏技術はかなり低いもので、誘われたのも「同期だから」という同情によるものであったんだと思います。
きっとこれで頑張れなければ終わりなんだろうと思い、それまでレンタル楽器で碌に練習していなかった自分を反省し、楽器を買って毎日狂ったように練習していました。
アパートの階下から聴こえてくるコンマスのソロが良いプレッシャーになっていたことも否定できません。まさかOrchestra Fontanaでも同じコンマスのソロが聴けるとは。

経験年数に相応しい実力になれたとは思いませんが、この時に実力が大きく向上したのは間違いありません。
ラフ3が人生二回目の企画オケであり、他オケのエキストラに誘われるわけもなかった5年間でしたが、最後の一年で、交響曲だけでもサン3、マラ7、ブラ1、チャイ5、マラ5、ブラ3、シベ6、ブラ4、ベト7と本当に沢山の演奏機会に恵まれました。
本番の度に、バイオリンとオーケストラが好きになっていきました。
ただその頃には、先輩がみんないなくなっていました。

自分が少し上手くなり、雲の上だと思っていた実力者達の背中がチラリと見えるようになった時にはもう誰もが大学を離れており、「どうして今更わかるようになったんだ」「もっとあの人から音楽を教えてもらいたかった」という後悔が腹の奥の方に溜まっていました。

少しは上手くなった自分の演奏を先輩に見てもらいたいという醜い自尊心が団体発足の原動力の一部になったことは否定できません。
スコアを購入してパート譜を作り、それから毎日のようにたった二曲に向き合い続けました。
どれだけ練習しても指が絡まる速弾きや、命中率の安定しない音程があったり、偉大なる先輩達の音を聞いて自分の表現できる音楽の狭さに気がついてしまったりしました。
本番になってやったことのないミスをしたりもしましたが、今の自分にできる最高の演奏ができたと胸を張って言えます。

楽器を始めた時は「少し弾けるようになれればいいや」という軽い気持ちで、その目標は達成されたように思いますが、まだまだできないことが沢山あり、もっと楽器をやっていたいと思わされました。
一生自分の演奏に満足することはできなくて、だから続けていくことになるんだと思います。

指揮者リハーサルが始まるまでの練習では、歴代の学生指揮者に下振りをお願いすることにしました。
私自身も東京練習の初回、一回だけではあるものの、ショス10を担当することになりました。
これは嫌々ではなく、僕自身がやりたいことでした。
練習は2時間程度の短いもので、初回ということもあり、全体を軽く通して終わりになることは最初から分かっていました。
ただ、学生指揮者の時に「自身の無力感」に敗北した自分としては、この2時間の為に自身の全てを捧げようと身構えていました。無力感に勝利する為には、無力でなくなるしかないと考えていたわけです。

ショス10の音源を聴かなかった日も、スコアを開かなかった日もありません。
スコアを全部打ち込んで、全ての音を把握しようと思っていました。暗譜は試みましたが、流石に無理でした。
尾崎先生の指揮をメディアで見返し、どういう風な音楽を作るか、どう練習を進めるかを考え、本番までを逆算していました。
初回の練習でやるべきことを全て書き出して、時間とメンバーの制約で増やしたり削ったり。
他の下振りメンバーとも何度も通話したり、文字でやり取りをしたりして、福岡と東京のどちらに参加しても価値のある練習になれば良いなと願っていました。

そうして迎えた初回練習。
案の定、時間はなかったものの、上々の滑り出しだったと思います。
たった二時間ではあったものの、あの二年間で敗北を喫した「何か」へのリベンジが果たせました。

これで下振りとしての仕事は終わり。
であったのは、まあ間違いないのですが、この時にショス10と真剣に向き合っていたことは後々響いてきました。

下振りとしての仕事が終わった後も、コンマスやチェロトップと今後の練習計画やその内容を練る仕事は残っていました。
この二人は僕にとっては所謂、雲の上の存在で、音楽の経験も実力も僕の比にはならない尊敬してやまない人たちです。
その二人と、対等に(本当に対等だったかはさておき)音楽の話ができた時間は宝物で、努力が報われたと心から思えました。

演奏技術も、音程感も、リズム感も、音楽性も全てがコンプレックスでした。学生指揮者をやっている時のトップ会議では何を言っているのか分からないことが殆どでした。
今回、雲の上の存在であった人たちに「ここはどう思う?」「これどう聴こえてる?」と聴かれることが何回もありました。
パートやセクション練習で、それぞれがそれぞれの環境で育ててきた音楽やそのノウハウを共有して高めあうという場面を何度も見て、胸が熱くなりました。
共に音楽を作る、その一員として認められる人間になれたこと、こんなに嬉しいことはありません。

執行部

完璧で最強の八人です。
もう一度全てをはじめからやり直したとしても、これ以外のメンバーは全く考えられません。

正直なことを言えば、東京と福岡の二拠点という都合上、成り行きで、というよりこの人に任せるしかできないという理由で声を掛けたメンバーもいました。
それがこれほど素晴らしいチームとなれたことは、人と運が良かったとしか言えません。

執行部が発足した時、「犠牲者を出さない」「やりたいことを全部やる」というコンセプトを考えていました。

僕自身はオーケストラの運営に回ったことがなく、その実情は又聞きでしかありませんでした。
それでも、如何に大変かは、傍目にも明らかで、演奏会が終わった時に「楽しかった」よりも「辛かった」が上回ってしまう様を何度も目にしました。
それを「犠牲者」と表現することは不適切かもしれませんが、執行部は特別に何か特典があるわけでもなく、達成感と感謝だけでしか報われない人々が、それを味わうことができなくなってしまうなんてことがあって良いわけないと考えていました。

今回のメンバーは東京二人、大阪三人、福岡二人、鹿児島一人という構成で、かつ全員が会社員との二足の草鞋のため、どうしたって一人一人の負担が大きくなることは火を見るよりも明らかでした。
仕事だけでなく、結婚や子育てや学会など、趣味よりも優先せざるを得ない事項も沢山ありました。

僕の仕事は、主に「アイデア出し」「仕事の割り振り」「決定」の3つでした。犠牲者を出さない為に一番気を使ったのは「仕事の割り振り」の部分です。

発足してはじめの頃は役職はありつつも役割分担が曖昧な部分もあり、良くも悪くも「みんなで助け合っていこう」とやっていました。
半年経った辺りで失敗しました。
誰かが善意で本来別の人の仕事だった部分をやっていたために、お互いがやっていると思っていたことに誰も手を付けていなかったのです。
そこからは、役職の仕事を各々が責任を持ってやる、という方針に切り替えました。
この方針転換は、仕事の抜けが減るという安全性が高まる代わりに、一人一人の責任は大きくなり、犠牲者を生み出す危険性もまた高めてしまうことは分かっていました。
大変な時期には他の人が助け合えるよう、僕は常に全員が何をやっているのか把握していました(最後の一ヶ月はあまりにも多すぎて、一人で全てを把握するのは諦めて、信用して任せる部分も多くありましたが……)が、それにしたって、仕事が多すぎました。福岡で実際に動けるメンバーは二人しかいなかったわけですし。

それでも最後まで全員が楽しく終わることができたのは、最終的にはやはりそれぞれの熱量が大きく、お互いにお互いを信用できていたからだと思います。
誰かが失敗をしても笑って済ませられるメンバーであったことは、心の支えになりました。

予算よりも費用が膨らみ、追加徴収が必要、となった時。
執行部で負担するという選択肢もあったと思います(そうした実例も耳にしました)。
ただ、その時も、団員へは迷惑をかけるし、小言も言われるかもしれないけれど、それでも我々が犠牲者になってはいけないというコンセプトが方針を決めてくれました。その節は、ご迷惑をおかけしました。

どうして、そんなに忙しかったのか。
それは、「やりたいことを全部やる」というコンセプトが原因だと言わざるを得ません。
どうして「やりたいことを全部やる」なんて言い出したのか。
それは、やり残したことを完全消化するための一回きりの機会で、何か一つでもやり残したことがあってはいけないという思いがあったからです。

我々の叶えた「やりたいこと」は主要なものだけでも、以下の通りです。
・尾崎先生にプログラムを決めてもらいたい
・毎週のnote投稿を一年続けたい
・東京と福岡の二会場練習にしたい
・全ての練習の録音録画がしたい
・下振りをいろんな人にしてほしい
・弦楽器は乗せられるだけ乗せたい(会場都合で16型が限界でした)
・プレコンはいっぱいやりたい
・『市民のためのファンファーレ』で開幕したい
・アンコールには全員乗ってほしい

ただ、この「やりたいこと」というのは、簡単そうに見えて、なかなか厄介なものでした。
後にも先にもない一回きりの企画オーケストラなんて、やろうと思えば何でもできてしまうのです。

例えば、僕が土下座をしてどうしても自分でコンマスがやりたいんだと言い張れば、やらせてもらえていたかもしれません。ただ、そんなものは「やりたいこと」では全くない。
例えば、黒の衣装ではなくカラフルな衣装でやる演奏会を観たことがあります。例えば、対向配置は?例えば、二日開催は?二会場公演は?紙のパンフレットは?団員間のプレゼントは?アンケートは?

どうして、これが「やりたいこと」で、どうして、これが「やらないこと」なのか?
本能的に一瞬で判断の付くものもあれば、「どうして音楽をやっているのか?」という根本的な所に帰らなければ分からず、何日も何週間も判断を下すことができないものもありました。
そんな時にも頼りになったのは執行部のメンバーで、毎週木曜日の21時から23時で行われていた会議では、沢山のアイデアを出し合い、本当にやりたいことなのか精査して、現実に落とし込むという作業を何度も何度も繰り返していました。

Orchestra Fontana執行部の下した決定の中に、誰か一人の判断で決めたものや、なんとなくで決まったものは無いと思います。
どうして、これが「やったこと」で、どうして、これが「やらなかったこと」なのか?その全てを説明できます。

「やりたいこと」が100人全員一致するわけがないというジレンマも我々を苦しめることがありました。
それでも、最後まで僕のやりたいこと、延いては執行部のやりたいことを貫き通したことは正解だったと思います。最終的にそれがみんなのやりたいことになるとは思ってもみませんでした。

一度も喧嘩をせず、誰も犠牲者を出さず、大きなトラブルもなく、やりたいことを全部やりました。
本当に凄いことを成し遂げたと思っています。
これ以上のメンバーはあり得ません。

団員

僕は、「最強のオーケストラ」を作りたかったのです。

先述の通り、僕がオケに真剣になったのは随分と遅れてのことで、偉大なる先輩達が如何に凄いかということはこれっぽっちも分かっていなかったのです。
チャイ2のホルンも、クープランの墓のオーボエも、その凄さを当時は微塵も分かっていませんでした。
しょうがないじゃないですか、オケをはじめて最初に聴いた音がそれだったんですから。それが当たり前だと思っていたのです。トランペットもティンパニもあの音が普通だと思っていました。ファゴットはもうあの音ばかり聴いているので、まだ感覚がバグってます。

このオケの発足時に、「ぼくのかんがえるさいきょうのトップ」を半ば悪ふざけで考えました。
それぞれがどこに住んでいるか、今も音楽を続けているのかさえも考えておらず、正直、この内の半分でも返答があれば御の字だろうという絵に描いた餅でした。
はじめにオーボエトップから、即答でOKが来た時、喜びと、マジで言ってんの!?という驚きで、感情がぐちゃぐちゃになったのを覚えています。
それからも続々とくる好意的な返答に、一々驚いていました。

僕の伝だけでは、100人というメンバーは集まりきらなかったわけですが、そこは誰かの紹介という形で人が増えていきました。
このオーケストラは、全員が誰かのイチオシという最高のドリームメンバーになったと思います。

コンサートマスターと2ndトップについて、少し語らせてください。
あの二人、ここまで読んでるかな。

僕自身がバイオリン弾きというのもあり、お世話になった憧れのバイオリン弾きの数が多すぎました。
奇妙な話ではあるのですが、「ぼくのかんがえるさいきょうのトップ」において、バイオリンの二人は誰なんだろうというのは全然決まりませんでした。

あの二人になった経緯は、言ってしまうと成り行きみたいな所もあると思います。
ただ、この団体において、最高の人選であったと思います。

まず、2ndトップ。
巫山戯た人です。
何ヶ月も前から本番のことを意識して焦っていた僕は、沢山の連絡を投げては返答が来ないことに頭を抱えることもありました。
文章のやり取りだけでは埒が明かず、直接電話で何をどうするか相談させてもらいました。
結論から言えば、僕とは大切にしているものが違っていて、それはどちらも間違いではない、みたいな話でした。
実際に練習で顔を合わせるまでは、正直不安もありましたが、合奏が始まってからは本当に頼りになる人でした。
パート練習でギリギリした音を出させたり、親指でピチカートさせたりしたかと思えば、朝で美しい空気のような音を出したり。
合奏中に何本か弦を切るんじゃないか、いつか立ち上がるんじゃないかと後ろでヒヤヒヤしていました。
巫山戯た人です。
ただ、この人のお陰で、みんなが「何やってもいいんだ」という雰囲気になり、この団体全体が明るくなったとさえ思っています。
本当に感謝しています。

続いて、コンサートマスター。
オケの中心であるその立場は、この団体においては特に難しかっただろうと思います。
上の世代にも下の世代にも知らない人がいる中で、ソロもあるこの大曲。
ストレスとプレッシャーはあっただろうなと思います(勝手なことを言っています)。
僕はたった3回の団内練習と2回の指揮リハという時間の短さに何度か挫けそうになりましたが、いつでも明るく、否定的なことを口に出さずに、団全体を引っ張っていってくれました。なんなら僕も引っ張られました。
この人、そんな聖人君子みたいな人じゃなかったはずだけどな。
裏でメチャクチャ練習してるけど、それを表に出さない。
裏でどんなことを考えていても、それを表に出さない。
やりたいと思っていても、なかなかできないことを当たり前にできることが本当に格好良い。
素晴らしいコンマスには何人も出会ってきましたが、Orchestra Fontanaのコンマスとして、最も相応しい人であったと思います。
本当に感謝しています。

極々個人的なことを言えば、はじめての交響曲であるチャイ2の2ndトップと、ある意味ではじめての交響曲であるラフ3のコンマスの後ろで弾けたことは本当に感慨深いものでした。

演奏会の後に運営メンバーが団員にお礼をいうのは変だと思っていました。いや、あなた方は威張ってろ、お礼をいうのはこっちだと思っていました。
ただ、実際にその立場になってみると、感謝の気持ちしか込み上げてきません。
録音録画、会場の手配、舞台図の作成、下振り、デザインの作成、パンフレットの曲紹介、積み込み積み下ろし、楽器の運搬、チラシの挟み込み、二次会の幹事、note記事の執筆。
執行部外の人の協力が無ければ、運営をまともにすることすらできませんでした。

最後には、100人という大規模なオーケストラになりました。
その全員に心からの感謝を申し上げます。

尾崎先生

企画オケは、大抵やりたい曲があって、そのために始まることが多いようです。
ただ、このオケは「先生のやりたい曲をやってほしい」ということをキッカケに始まりました。

ショス10と言われることを期待しながらも、そうじゃないかもしれないし、そうじゃなくてもいいと思っていました。
練習期間が少ないことも伝えていましたし、先生の好みだって変わっているかもしれないし、実は知らないだけでもっとイチオシの曲があるかもしれないし。
それでもショス10と言われた時は、「遂にこの時が来た!!」と心の底から思ってしまいました。

尾崎先生もレセプションでおっしゃっていましたが、今思えば「OB集めてオケやる。今からメンバー集める。好きな曲を振ってほしい。詳細は何も決まってない。振ってもらえませんか?」という旨のメールのなんとクレイジーなことか。
そりゃ「君たち、おかしいよ」と言われるわけです。

僕は尾崎先生が、世界一カッコいい指揮者だと思っています。
ただのファンなのです。

はじめての指揮リハの時から「こんな日が来るとは思っていなかった」「夢みたいな景色だね」「本当にありがとう」と嬉しい言葉をいくつもいただきました。

「この日のために音楽をやってきた」と言われた時は、頭が空っぽになりました。
一介のアマチュアオーケストラが世界的な指揮者に言わしていいセリフではないでしょう。

尾崎先生には事あるごとに感謝を伝えていたのですが、それ以上に尾崎先生から「ありがとう」と言われたような気がします。
こんなことになるとは微塵も思っていませんでした。

はじめて尾崎先生にお会いしたというメンバーもいました。
どうでしたか?世界一格好いいと思いませんか?
僕と同じようなファンが増えていれば嬉しいです。
皆んなでいつかルーマニアに行きましょう。

第二回はあるのか?

まあ、無いと思います。

僕の腹の中で燻っていた全てを曝け出し、その全てを消化し切りました。
それは情熱だとか、後悔だとか、愛だとか、自責だとか呼ばれる、その集合体で、今僕の体の中には、熱いものが一滴も残っていません。

アイデア。バイオリン。指揮。文才(?)。素晴らしき仲間達。
僕の持っている全てです。
これが、僕の全てです。

「自分の企画したオケと同じくらい楽しかった」という嬉しい言葉をもらいました。
自分で企画したからこそ、この言葉がどれほど重たいものか分かります。

この演奏会は、僕の腹の中の熱いものを吐き出した代わりに、誰かの腹の中に熱いものを生み出したことだろうと思います。

いつかそれが爆発して演奏会という形になり、それに対して「自分の企画したオケと同じくらい楽しかった」と言える日が来たら。
それまでは楽器を続けていたいものです。

最後に

僕が最も恐れていたことは、「これだけ頑張ったけど、まあこんなもんか」と言ってこのイベントが終わってしまうことでした。
自分の人生を賭けたと言ってもいいこのオケでも、僕だけが頑張って、なんか空回りしちゃったなというシナリオは十分にあり得る可能性でした。

このオケのメンバーは、今でもオーケストラに入っているメンバーが多く、「今年の数多くの本番の一回」として消化されることは、最低でも最悪でもない。当たり前にそりゃそうだよなと思って受け入れるつもりでした。

逆に大成功する未来も何度も想像しました。
そこでは全員が本気でOrchestra Fontanaに向き合い、最高の演奏をして、美味い酒を飲んでいました。

現実は、それよりも随分と良いものでした。

僕は僕のしたいことをしただけで、それをみんながどう思うか、というのは微塵も考えていませんでした。

ただ、僕にとってのOrchestra Fontanaの始まりがたくさんあるように、それぞれにそれぞれの始まりがありました。
燻っていた熱いものを抱えていたのは、僕一人ではなく、今回それを吐き出せたと多くの人から感謝されました。

アマチュアの音楽家は、どこまでいっても自己満足というのが僕の持論です。
その理屈で言えば、Orchestra Fontanaは、アマチュアオーケストラの一つの完成形だったのではないでしょうか。

僕のやったことをドミノに喩えている人がいました。
はじめの一つを倒したことが偉いと。
ただ、そこに並んでいたドミノは、これまで何年も何年も多くの人によって並べられていたものです。

きっと、Orchestra Fontanaもいつか誰かにとってのドミノの一つとなり、ほんのちょっとしたキッカケで、倒し始めてくれることでしょう。
その日が来る事を心から楽しみにしています。

最後に。
みんな音楽を続けていたから、あの一日を迎えることができました。
みんな音楽を辞められないから、きっとまたどこかで会えることでしょう。
一人一人と帰っていくたびに、これを終わったら当分会えないことは分かっていても、「またどこかで!」と湿っぽくならずに終われたことも今回嬉しかったことの一つです。

きっと僕は辞められないと思いますので、貴方もずっと続けていてください。

では、またどこかで!

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