『エヴァンゲリオンビヨンド』の話をしよう
序文:舞台『エヴァンゲリオンビヨンド』を観た
今日見てきた。
なんならさっき見終わったところだ。
幕間で買った公演プログラムすらまだ読んでいない。
それでもこの舞台に言いたいことが山程あった。
今の気持ちを要約すると「舞台芸術としては非常に優れていたがエヴァとしてはどうなんだ」って思ってる。
今日はその話をしたい。
※以降全文に渡ってネタバレ
私はエヴァンゲリオンのオタクではない
まず断っておきたいのだが、私はエヴァンゲリオンのオタクではない。
TV版も旧劇も新劇も2回ずつ見たかなってくらい。円盤も持ってないので特典映像とかもわからん。
新劇は特に劇場で見たっきりじゃないかな。序とか破は新作出る度に「何の話してたっけ」と思って比較的見たとは思うが、まあ多くて5回とか。
エヴァは優れた作品だと思うし見ると楽しい。
この楽しさはエンタメとしての楽しさだ。イヤな話だな〜って気持ちを濁りなく味わえる。作品に対して、性格悪いやっちゃなあと思っている。
あと「は?なんて?」ってめちゃめちゃ思ってる。全然わからん。リリスとリリンの話とか本当に全然わかってない。月面のシーンを説明しろと言われても一文字も出てこない。
エヴァが人工生命なのはわかる。でもなんで人工生命なのかは説明できない。
でもなんでエヴァが人間である必要があったかはなんとなくわかっている。(と思う)
あれは二者間の相互不理解の物語だからだ。
知的生命同士の軋轢の話に無機物の介在する余地はない。
少なくとも戦闘用ロボットをガジェットにすることを選ばなかった物語だ。
そういう理解をしているので、的外れだと思ったら以降の文章は読むに値しない。
ずっと的外れな話をしていると思うし、観劇レポとしての有用性も低いので苦痛を押して読むほどのこともない。
舞台芸術としてはよかった
早速主題から逸れて申し訳ないが、感想を書く上でこれは言っておきたい。マジでめちゃくちゃよかった。
舞台『エヴァンゲリオンビヨンド』(以降「エヴァステ」)は当初からコンテンポラリーダンスの要素を前面に打ち出していた。
浅学なのでコンテンポラリーダンスについての正しい説明は余所に譲るが、身体表現に特化した舞台を宣言してきたのだ。
これがマジでよかった。
見てる最中「人体スゲエ〜〜〜!!!」ってずっと思ってた。
ド下手だったことで最終的に首と腰が逝ったため幸運だったかはわからないが、一応最前列だったので目の前で人体の躍動を見ていた。
なんでひっくり返ったのに無音で着地するんだろう?わかんね〜〜〜!!!!
とにかく高度に制御された人体は、美しかった。
有機的なSFは大好きだ。
流線的で、柔らかく、肉体のグロテスクさを持っていて、生命への共感があるからこそ乖離一層増して恐ろしい。
これは多分不気味の谷にも似ている。
人間の形をした人間じゃないものへの恐怖は、人間の形をしていない人外に対する恐怖より表明に理性を求められそうで恐ろしい。
しかも人工物だから美しい。
美しいものをあえて拒絶するからには何か正しい表明を行わなければならない気がする。
文化的で高度に文明的で理性ある理由がなければ、拒絶する方が悪いような。
目の前で躍動する人体はまったく人工物じゃないんだが、そういう「ヒトの形をした理解不能なもの」の美しさを持っていた。
高度に発達した科学は魔法と区別がつかないが、高度に発達した人体は人外に見えた。
そんでそれは巨大な人造生命を劇場空間に生み出す上で強力な武器だった。
肉体の躍動とエヴァ人形(としか言いようがない)のシンクロは、正に両者の肉体が重なり神経が繋がって見えた。
エヴァじゃなかった
んで話は戻るが、結果としてエヴァステの物語はエヴァで語るべきことでは決してなかった。
要因はいくつかあるが、「使徒とは、地球の、大自然の怒りだ」と結論が出たあたりが致命的だった。
ンな90年代のロボットアニメでやり尽くされたような話をなんでエヴァでやるんだ。勇者シリーズとかにノルマのように挟まれてた環境問題回を思い出したが、あれも私は好きじゃない。
なんか作品と関係ないところから倫理が生えてくるからだ。
環境問題回では、現実社会の正しさが作品の世界観を凌駕する。
「外敵と思っていたものの正体は地球そのだったんだ!」「無尽蔵にエネルギーを求める人間に地球がキレてるんだ!」うるせ〜〜〜〜〜そりゃ怒ってるか怒ってないかで言ったら怒ってるに決まってんだろ。だがこの劇場空間はそんな話をする場ではない。
ここはエヴァンゲリオンの話をする場であり、エヴァンゲリオンはミクロな相互不理解の問題を追求する物語だ。
生命が隣人に抱える相互不理解と葛藤と苦痛と優しさの物語を、よりデッカイ問題で押し込めるべきではない。
日常の悩みを聞いて「死ぬよりマシだよ」とか言ってくるヤツ。お前は今そういうことをした。
地球がハチャメチャになったり月に行ったりしたのも、そんなことを語りたいためじゃないはずだ。
不完全な二種族の衝突は、決して美しい地球を守るためなんて目的で勃発したわけではない。
どんなに策を弄してもどんなに生命をアップデートしても理解し合えない、だがそれと向き合うしか救いはない。
そういうコミュニケーションの話を、なんかクソ壮大にやってんのがエヴァンゲリオンだったはずだ。
『対話』の違い
エヴァステでも、対話の話はあった。
が、エヴァステで言ってたのは要するに「己の内なる声を聞け」だ。決してコミュニケーションの話をしていない。
内なる自分との対話に終始すると碌なことにならん、会話をせえ会話を、みたいなのはエヴァ本編に通底している気もするが、そもそもエヴァは自我とか自己実現みたいなあたりに相当な不信感を抱いている感じがある。
自分に正直なやつ碌でもね〜、みたいなのは視聴者から見た結果論であってテーマ性として芯は食ってない気がする。
このあたりもエヴァステは的外れな感が強く、テーマそのものの悪さというよりは「エヴァでやることじゃなくね?」の感覚がある。
エヴァステは「自分に正直に」とは言うが「相手にちゃんと向き合え」とは決して訴えてこない。
換骨奪胎、ただし奪うべきはそこではない
エヴァステはアニメを見ていれば既視感ある場面や人物が連続する。
シンジやアスカやカヲルのような少年少女と、ゲンドウやミサトや加持リョウジみたいな大人が出てくる。
台詞にも相当オマージュが多い、というか印象としてはエヴァ本編の再構成に近い。
「あんたバカァ!?」って罵ってくるハーフツインテの女子とか出てくる。テッパンすぎてさすがにちょっと照れた。
要素の削ぎ落とし方そのものは洗練されていて、物語を繋ぐため当然知らない場面はあるのだが、大に小に、常に既視感が付き纏う感じがある。
そしてそれ自体は悪ではない。
オマージュや既視感を味わいながら、マルチバースとかリフレインとか、その意図を色々考えながら見ているのは結構楽しかった。
特に1幕は「エヴァンゲリオンの再演世界」として見ると、少しずつズレていく奇妙さが例の有機的なSFによって齎される不気味さと合わさってずっと不穏な肌触りがあった。
問題は、最終的にその再演が「エヴァンゲリオンの表皮」として以上の意味を持たなかった点だ。
エヴァンゲリオンの表皮に、全然知らん、使い古された環境問題だの内なる自分の心だのいうテーマ性が捩じ込まれている。
作品全体に対する解釈違いだ。エヴァの見た目さえしてなきゃ全然気にならないものが、エヴァの表皮を被ってるせいで無視もできない。
換骨奪胎、大変よろしい。
だがまさか皮膚だけ奪って骨も内臓も場外に置き去りにされるとは思わなかった。
隣人とコミュニケーション取るのは難しいし怖い、だがそこから逃げてどうすんだ、みたいなミクロな問題を、世界をハチャメチャにしたり宇宙に飛んだり人間やめちゃったりする壮大な世界の上でのたうち回るのがエヴァの特筆すべき点だ。
壮大な世界の上で壮大な話を「しない」からこそエヴァの物語は同業他作との異同を確立していると私は思っている。
世界がムチャクチャなのに本当に自分のことで手一杯なやつら。
話が進めば進むほど、人間関係も含めて妙にミクロに収束していく。
エヴァに青春群像劇の性質が乗るのは本質的に極々狭い世界の話しかしていないからだと思う。
目に見える範囲の隣人で世界が手一杯になってしまうのはなんとなく教室が世界のすべてに感じる学生時代を想起させる。
こっちは持続可能な地球の話をする大人を求めてエヴァンゲリオンを見ちゃいないんだ。もっと狭量な理由で人間関係を失敗しまくってほしい。
エヴァステはエヴァの形をしているが、魂はエヴァではない何かだった。
メディアミックスなのだから、エヴァの形はしていなくて構わないがエヴァの魂は持っていてほしかった。
むしろあれだけの躍動する肉体とソリッドなまでに洗練されて外連味ある舞台装置があるのだから、テーマを継承するだけでエヴァンゲリオンになったんじゃないかなあ…と感じている。
それだけ、エヴァの世界観は優れて鍛え抜かれた人体と相性がよかった。
人間の話をしてくれ。地球のことではなく。
追記:地球に怒りはあるか
自然現象が人間に不都合だった時に「地球が怒っている…」って言われてうるせ〜〜〜〜!!!!ってなる感情をもう少し言語化したいと思った。
というかこの一文がすべてな気もするが、そう、たまたま人間に不都合なだけだろうがと思ってしまう。
エヴァステで言えば使徒は四元素の象徴だ。
改めて書いて思ったけど2023年の14年後の話っつって四元素を出してくるその面の皮の厚さにはビビるな。中世じゃん。
そこはこの際グッと飲み込んだとして、でもやっぱ四大元素の活動を地球の怒りって呼ぶのは「やかましいわ」って思う。
火なら火山だし地なら地震、水と風は台風あたりかな。
これらの人間に不都合な災害を地球の怒りって呼ぶやつは、まああんまり隣人に欲しいタイプではない。
椅子から立った時に膝関節がパキパキ鳴って「体が怒ってる…」とは思わない。なんかそういう感じ。
地震が起きるのは地球のプレートが椅子から立った拍子にパキパキ鳴るせいなんだから、そんなのは現象であって感情じゃない。
雨が降るのは海とかが蒸発するせいだ。それは太陽が悪いだろうが。
なんかそういう不合理を、情に訴えかけてくるその根性が気に食わない。
カワイイわんちゃんやネコチャンにアテレコする感覚なのかな。
別にそれはそれでいいと思うけど地球を擬人化して扱うならハナから世界観を徹底しておいてくれ。
作中屈指の科学者みたいな、そういう賢いやつが急に「地球の怒りだ…」って言い出すとハシゴ外された気持ちになる。
その気持ちは知り合いがネットワークビジネスにハマってた時の気持ちにきっと似ている。
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