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📸撮る者だからこそ、周囲への配慮を忘れない-矢澤宏太選手から学んだこと-

写真撮影は、多くの人の思いやりによって成り立っています。そんな基本的なことを、私たちカメラマンは忘れてしまうことがあります。生きる上で大切な『思いやり』について、改めて一緒に考えてみませんか。

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先日、こんなニュースが飛び込んできました。大桟橋で撮影をしていたところ、施設側に料金を取られたとの話です。休日に趣味で撮りにきていただけなのに、なぜ撮影料を請求されるのかという疑問が書かれていました。

カメラマンの仕事と趣味の線引きについては、今回置いておくことにします。それではなぜ、大桟橋は撮影料を請求するのか。無料だっていいではないかという意見もあるかと思います。有料である理由を、私なりに考察していきたいと思います。



なぜ、施設側は撮影料を請求しているのか。



大桟橋を訪れたことのある人はご存知かもしれません。横浜の海に囲まれた、絶好のロケーションです。私は撮影したことがないのでわかりませんが、ベイブリッジなんかも一緒に撮れるのではないかと推測します。ドラマやブライダルの撮影、家族写真なども映えること間違いないでしょう。

そんな素晴らしい景色ですから、あらゆる人がカメラを構えてやってくることは想像できます。天候や日の角度なんかにも左右されるので、良いポイントを見つけたら、長時間の占拠は避けられません。要は、場所代を請求されているのです。

それでも撮影料を取ることに対して、ケチだなと思う人も中にはいるでしょう。よく考えてみましょう。先程も説明しましたが、撮影をするとなると、長時間その場所を占領することになります。

カメラを構えない通行人は、必ずといっていいほどカメラを避けます。皆さんもそうではありませんか。記念撮影している人の前を、わざわざ通ったりはしない。撮影している人を見かけたら、自然と邪魔にならないように配慮しているはずです。そんな周囲の思いやりを、撮影者は忘れてしまいます。

避けてもらって当たり前というより、周りの配慮に気が付かない。それだけではなく、カメラを構えていれば『避けてもらえて当然』と驕りの気持ちさえ抱いている可能性もあります。いずれにせよ、他人がどいてくれることに慣れすぎているのです。


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このことに気が付いたのは、つい最近です。私は大学野球をよく観戦しています。その日訪れた球場が、撮影には好ましくない環境でした。ブルペン(投手が投球練習をする場所)と打席がちょうど被るような座席配置だったのです。投手もしくは捕手がその場所に立つと、ピンポイントで打者が見えなくなってしまいます。

こういうことは時々あって、慣れています。私は『与えられた環境で撮る』と決めているので、その日は打者を諦めました。そういう構造なので、致し方ないと判断したからです。撮影することに躍起になって、あちこち移動しようとは微塵も思いませんでした(球場では過度な移動をして撮影することを良しとされていません)。

そんなとき、とある投手がこちらに目を向けました。日本体育大学の矢澤宏太投手です。カメラを構えていない私の異変を察知したのか、はたまたライブ中継のカメラを発見したのかはわかりません。彼は捕手にジェスチャーを送り、観客の視界に入らないよう奥に移動をしたのです。

私は率直にありがたいと思ったと同時に、彼の『広い視野』に感銘を受けました。きっと自分(矢澤投手)が移動をすれば、撮れるのではないかと判断したのでしょう(もちろんこちらは邪魔だなんて思ってもいない)。試合に集中している人間が、観客のことまで思いやれるでしょうか。

今回、たまたま矢澤投手の思いやりに気が付くことができました。とはいえ、こんなケースは今までもごまんとあったかもしれません。ファインダーばかりを覗いていて、視野が狭まっていた自分を恥じました。選手にまで気を遣わせている。そして、その気遣いは当たり前ではありません。今、こうして私が写真を撮れるのも、色々な人の思いやりがあってこその結果です。

球場では、選手はもとより、スタッフとスタンド(試合に出ていない選手たち)が主役です。彼らの迷惑にならないように撮影するのは当たり前です。ただでさえ大荷物であり、機材も大きい。万が一誰かにぶつかったり、荷物に引っかかったりして怪我をされたら困ります。カメラのせいで他の観客の視界を遮ることも許されません。

首都大学野球連盟は、商業目的の撮影でなければ、申請不要で撮影(動画は必要)ができます。球場の使用料を請求されることもありません。無料で撮影できることは、本来当たり前ではないことを、心に刻んでおきたいです。


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選手から教えてもらうことはたくさんあります。今回は、矢澤投手という一人の選手、一人の人間の大きさを思い知りました。球場で当たり前のように撮影できていますが、それは誰かの思いやりと気遣いによって成り立っているのです。

カメラを構えていると、どうしても気が大きくなってしまうことがあります。どいてくれて当たり前。よけてくれて当たり前。席を譲ってもらえて当たり前。そんなことは絶対にありえません。撮っているのはただの人間です。

網に張り付く行為も同じです。後ろに人はいませんか。誰かの視界を遮ってはいませんか。一人一人がマナーを守れば、楽しく撮影ができます。しかし、誰か一人が悪質な行為をはたらけば、厳しい制約ができる可能性があります。

誰かの思いやりと気遣いがあって、撮影は成り立っている。周囲に目を配って、これからも撮影に臨みたいと思います。

日本体育大学 矢澤 宏太 投手

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