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負けず嫌いの奥にあるもの
注:登場する「私以外の他者」の方についての記述は、あくまで当時、認知の歪みが残っていた状態の私の視点から見たものです。相手から見た事実は恐らく異なり、仮に私が被害者視点で記載していたとしても、現在お相手の方を責める意図は一切ありません。
私は負けず嫌い。
いつから負けず嫌いだったのか記憶を辿ると、幼稚園の頃にはすでに妹との喧嘩で負けを譲らない姉だった。そこから成長するにつれいつの間にか自覚して、負けず嫌いは長所とも短所とも言える微妙な位置で私の中に存在してきた。
「私って負けず嫌いだからな~」
負けず嫌いを自覚しているから、抵抗なく口にしてきた言葉。
でも最近はその言葉に違和感を抱き始めた。
無意識のところに何かがある。
それはその現象の本当の理由じゃないぞ、と内側から声がする。
私は私のことを「分かった」ことにしがち。
本当は気づいている。でも受け止めたくないときはその声を無視してきた。
負けず嫌いのさらにその奥で、私は何を隠している?
負けず嫌いは一番底にあるように見えるが、もっと奥に何かある。
ずっと見て見ぬふりしてきた。
何かあるとうっすらわかっていても
「今じゃない、まだ大丈夫」と受け流して過ごした。
「いつか向き合うときが来たらわかる。でも今じゃない」と。
(最近までキャパがいっぱいいっぱいだったので、無意識にコントロールしていたのかも)
とうとうその時が来てしまった。
直感的に受け入れ体制が整ったのがわかる。
私はいま自分の心をのぞき込もうとしている。違和感なく、自然な動きで。
その奥には何がある?私は何を誤魔化そうとしている?
無視していたときの居心地の悪さは好奇心へ変わっていく。
見たがっている。気づかれたがっている。
さらに一段階深く踏み込んでいく勇気。
負けず嫌い。それは私の強い感情の源になることも多い。
これのお陰で生き延びてきた部分は大きい。
人生を自転車を漕ぐ行為に喩えたら、「負けず嫌い」は私を転ばせないようにするための補助輪みたいな。
でもそろそろ補助輪を外してみたい。
今なら転んでも立ち上がれる自信がある。
なぜ負けることを許せない?
負けた気がしたときのあの隠しきれない強烈な悔しさはどこから来る?
その悔しさは怒りに近いエネルギー。
内側に留めようものならそのまま内部へダメージを与える感情。
なぜそんなにも「誰かの下」になることを嫌がる?
対等でいたい。
それはわかる。
でも「対等であるべき」ときに「対等でない」と感じたとき、強く反応する。それは私が「対等であること」に執着しているから。
というか「対等であるべき」ときって何?
傲慢さを自分に感じる。お前が決めんなよ、と。
この執着は何?
執着がもしなかったら、一方的に誰かが私を下に見てきたとしても、きっと無視できるのでは?
無視できていないのは執着しているから?
負けたとき私は何を失うの?何を守りたいの?
今まで心の中で隠すように留めてきた言葉をついに外へ出した。
ここから何かが変わるのか、それとも変わらないのか。
これ以上は考えても逆効果なので、ただ流れに任せて過ごしてみる。
今回私が使った意思は「外へ出す決心」をしたことだけ。
あとは無意識の自分と、マイコーチとの次回セッションに委ねる。
どうなるのかな。わくわく。
また進展があれば書きたい。
ではまた。
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