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無意識にずっと自分を責めていたことに気づいた日

注:登場する「私以外の他者」の方についての記述は、あくまで当時、認知の歪みが残っていた状態の私の視点から見たものです。相手から見た事実は恐らく異なり、仮に私が被害者視点で記載していたとしても、現在お相手の方を責める意図は一切ありません。


今日はゲシュタルト療法のWSへ参加。
運よくクライアント役をやる機会をいただき、前から深め切れていない「怒りを手放す」をテーマにワークを受けた。

※今回参加したゲシュタルト療法ワークショップにおける「ワーク」とは、即興劇のように、クライアント役にとっての「家族や知人」の役割を参加者の誰かが担って進行していく。それぞれの登場人物のファシリテーションは、ゲシュタルト療法の知識を持ったファシリテーターが行う。

「ワーク」について補足

インパクト大の体験をしたので、一旦事実ベースで起きたことを記録しておきたい。これによる変容の記録はまた必要になったときに。。



私の人生最大の悩みは「怒りを手放せないこと」

何か受け容れ難いことが起きた時、頭では「受容すべき」と理解しているし、そうありたいのに、心が反発することが多かった。長い年月をかけて、かなり感情のボリュームは小さくできるようになってきたし、そもそも怒りに発展させないよう認知を変えたこともたくさんある。

それでもまだ人に比べると私は短気で、しかも溜め込んでから爆発させてしまうから質の悪い怒り。小出しにしたくてもうまくできない。そもそも自分の感情は外に出してはいけないと思っていて、感情を抑圧してきた。できないくせに。笑

抑圧できないのに抑圧しようとした感情はいずれ漏れ出るようになり、人を傷つける。そして我慢の限界がくると大爆発を起こし、たくさんの関係性を壊してきた。

繰り返しぶつかるこのテーマ、自分に要因がある気がしつつも誰かを責めたい気持ちもあった。誰かを責めたい自分が許せず、ずっと葛藤してきた。他責は罪を他人になすりつけるようで汚い気がしたから。

そしてその感情はそのまま外へも向き、自分と同じように誰かのせいにしようとする人を許せなかった。すごいエネルギーで陰と陽の感情を燃やしながら生きていたと思う。

ずっとそれが苦しくて。

私は自分の怒りを怪物みたいだと感じていたし、いつからかは覚えてないけど、少なくとも10年以上はやさしい人間に憧れ続けている。


隠された心の傷

でも今日は、ようやくその感情の奥底にある「心の傷」を直視することができた気がする。(まだ更に底があるかもしれないけど…)

それは幼いころ、両親の前で自分の意思を出せなくなった記憶。
うっすら存在を認識しつつも、掴み切れていなかった感情。

それらに、ワークをしながら泣き叫んでいた自分の言葉で気づかされた。

「私を勝手に決めつけないで」
「私を信じて」
「私はダメな子じゃない」

だけどこの言葉たちはファシリテーターであるヒロさんの誘導がなければ、私の内側で循環し続ける独り言でしかなく、人にぶつけることはできなかった。なぜなら、はじめは頑なに両親を責めることを拒んでいたから。

責めたい気持ちもありつつ、責めてはいけない、これは私が悪いんだと、知らないうちに思い込んでしまっていた。無意識に、自分の体に爪を立てながら。

私を観察していたヒロさんに爪を立てていることを指摘されると、両親(を演じている参加者)に対しても爪を立ててみるよう促された。
※もちろん相手の方には傷がつかないよう配慮しています。

やってみると、とても居心地が悪い。
自分に爪を立てるのは安心するのに、親に対しては申し訳なさがある。

ここで大きな視点の切り替えが起きた。
そんなつもりは今まで全くなかったけど、私は大人になった今も自分を罰し続けていたらしい。無意識に。それに気づいたのは大きい。

(思春期の頃は自分の心を過剰に自虐する傾向があった。自分で自分を罵る習慣があり、それをすることで傷つきながらも謎の安心感を得ていた)

ずっと抑圧して生きてきたことをようやく身をもって知った。
なんとなく分かっていた気がしたけど、本当の意味では分かっていなかったらしい。

強く強く自分を抑えつけ、
「お前はそのままではダメだ」
「我儘をいうな」
「自分の感情を優先するな」
「努力しろ」
そんな言葉たちを親に代わって自らに投げつけて生きてきた。

それは決して無駄ではなかったし、そのおかげで得たものもたくさんある。
必要なときに努力できるようになって、それによって身についた能力もある。

だけどもうそろそろ、その抑圧は手放していいのだとワークを通して気づいた。これが私から優しさを損なわせていた要因のひとつだから。


「可哀想な私」

そんな自分を俯瞰してみて、率直に、自分が可哀想だと思えた。
自分で自分を傷つけていたと気づいて悲しい気持ちになった。

そう思えるようになったことが大きな進歩。前の私なら、それすらも「その程度で被害者ヅラするな」「もっと苦労してる人はいる」と抑圧してきたから。自分が感じる悲しい感情には偽物とかないのにね。

自分で自分を労われないから、他人にも厳しかった。
頭では既に気づいている事実だったけど、それでも変容に繋げきれなかったのは、心が「自分を労わること」を拒否していたから。

今回はじめてちゃんと、幼少期や思春期の自分の悲しみに寄り添えた気がする。わかんないけど。


怒りの矛先

両親へ向けることのできなかったやり場のない怒りは、自分の内側で渦巻いていたと知った。この怒りの源泉を知るだけでも私には大きな気づき。

では両親へ怒りを向けるのか?と問われると、それもまた違う。

ゲシュタルト療法のワークを通して、両親の痛みもよりリアルな質感で味わうことができた。ワークでは即興劇のように家族の役割を参加者の誰かが担う。私が味わった家族の痛みは、その参加者の方を通したもの。つまり実際どうだったかは両親本人に聞かないとわからない。

それでも、想像していた両親の痛みはよりリアルな質感へと変化した。

それを目の当たりにして、怒りなんて湧いてこなかった。
寧ろ心に溢れていたのは愛で、私はその愛で自分を痛めつけていたのだと気づく。相手の悲しみを勝手に汲み取り、寄り添い、怒りの矛先を向けないようにすることが愛。そして矛先が向くのは自分自身。

社会人になり、結婚して家を出て、自己肯定感もそれなりに高まって、すっかりこの自分へ向けた負の感情は消失したと思っていた。でもどうやら根は深かったみたい。無意識下でせっせと働き続けていた。

家族に対して強い感情を抱くこと自体は減っていたけど(一緒に住んでないしね)、他者への怒りが消えないのはきっとそのせいだと感じる。


これからどう生きるか

体の感覚レベルで自分の痛みに気づいたとはいえ、たぶんすぐには自分を責める行為をやめられない。だけどこの出来事は、今後の人生へ確実に良いインパクトを与えた。

その上で私は何を選択するか。

今日の出来事や、直近の出来事を俯瞰してみると、やっぱり自己受容がキーワードのような気がする。私は私の人生を生きる覚悟がまだできていなかった。他の誰かの人生を生きようとしていた。

具体的に何をするかは決めてないけど、私らしさをもっと追求したい。
流されるのではなく掴みに行きたい。

そのためにもっと徹底的に自分の無意識領域を探求したいし、受容していけるようになりたい。それが今時点での選択。ゴールはまだ見えてない。


さいごに

これは今日実際に起きた体験と、今時点の私に湧き起こっている感情。
ここからどう変化するかは分からないし、一旦放っておこうと思う。

ただ今時点での記録を残しておきたかった。

しばらく経ったあと、今日の出来事をどう意味づけるのかは想像できてない。それは流れに身を任せて味わってみるつもり。今は一旦日常生活へ戻り、持ち帰った学びとともに、丁寧に毎日を過ごす。

明日から私はどんな人生を歩むのか楽しみだな。
(いきなりガラッと変わることはないだろうけど。笑)

あー良い一日だった。そろそろ締めようかな。

ではまた。


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