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絵に描いた花_映画『母性』

 花の絵を見て、その花の香りや手触りを求めるのに、センサーやエスパーは必要ない。捉えどころのないものが欲しいのなら、よく、知ることだ。そして、他人の視点を取り込むことが必要なのだ。
 これは、人の心にも同じことが言える。映画『母性』は、人の心を知るきっかけになるだろう。

 私は映画館へ行くのが好きだと話すと、なぜなのかと興味をもたれることがほとんどだ。映画は好きだよと言ってもらえると、身体がそれを肯定して、映画について話したくなる。その後はだいたい、パンくずを見失って驚嘆するハトのように、うなずくことをやめてしまう。
 思い出したのだ。私は観た映画の内容を覚えていない。さらにいえば、映画をたくさんと言えるほど、観てはいない。
 それでも、好きということに、ハードルを設けてはならない。

 このエッセイは、映画『母性』を通した、私の視点のパンくずである。
 あなたは、パンくずをたどると、映画館へと行き着く。これは、考察とも定義づけとも言えない、誘いである。
 好きかと問う言葉に「はい」と言う素直な心が大切なのだ。

考えさせられる

 なぜ映画を観るのか。
 私たちの視点が有限であることを考えると、無限とも捉えられる選択肢の中から、なぜ映画を選ぶのか。
 この問いを、心の動きをつっついたという連中の、感情マシンという言葉で片付けてはいけない。感情マシンとやらがつくったチーズケーキは、お茶のつまみにでもすればいい。
 観ていて楽しいという理由で、映画を観るのか。考察するのが楽しいという理由で、映画を観るのか。どれも正解だと思う。それぞれの視点を否定してはならない。

 映画は何をもたらすのか。
 映画の登場人物は、欲を露にして、失敗を犯して、過去を引きずり出す。これはあなたの価値観に、疑問をもつきっかけである。
 あなた自身の存在を問い、考え続けることになる。
 きっとそれが永遠なのでしょう

花の描かれた世界

 花というものには意識を向けないと、誰も気に留めない。小鳥さんが、こっちだよと言って、花見に誘うことは、残念ながらないらしい。
 映画は、道に咲く花を一本ずつ見るように、注意深く作りこまれたものだ。執着とも思える製作陣のこだわりも、注意深く意識を向けなければ、気づくことはないだろう。

 映画『母性』は、女子高生が自ら命を絶つ展開から始まる。娘を愛せない母ルミ子と、母に愛されたい娘、二人の視点で真相を見ていく映画だ。
 作中では花と植物のモチーフが、いたるところに見られる。服にコップに絵に、こんなところにまで、と思うほど徹底している。上映終了後には、思わず自分の服にまで、花を探してしまうほどだ。
 映画には世界観がある。つまり、雰囲気だ。感じ取ってほしい雰囲気やメッセージの手がかりが、ものや背景に込められているのだ。
 拾い上げた花びら、ハサミで切られる花、季節外れの花。花とは一体、何のことなのか。
 そして、花の描かれた絵がきっかけで、ルミ子は結婚をすることになる。絵を通して、母と娘の視点を考えることになるだろう。

 私が伝えたいのは、どうか背景も見てほしい。
 これは、楽しみながら人の気持ちを考えることであり、人のいいところを見つける至福なのだ。
 製作陣の熱意を感じ取ってほしい。
 美しく咲き誇りますほうに

映画館で泣く

 怒りを表現するのに、口に泡を含み、波を寄せつけないほどハサミを振り回す、シオマネキのようなボディランゲージは、滑稽である。ましてや、波を操る海神に槍を向けられても困る。
 ルミ子が娘に怒るときに向けるのは、背である。そして食材に、包丁を振り下ろす。平静を装っているが、娘だけに伝わるメッセージを送っている。切る音で会話をする。
 これがリアルな怒りなのだ。

 印象を見せるというのは難しい。
 私は、電子決済のスマートな支払い広告に憧れて、ある電子マネーを試したことがある。
 本屋のレジで、スワロフスキーを見せびらかすように、スマホ画面を見せつけた。
 「申し訳ございません。当店では取り扱っておりません。」
 私は焦ったが、たこ焼きを冷ますのと同じ要領で深呼吸をした。風がない湖の水面になるのだ。なんとか落ち着くことができた。そうして財布から現金で支払う。
 上出来じゃないか。スマートな態度を維持しながら、見事に持ちこたえたのだ。
 これが私の視点だ。
 おそらく、周囲の視点は異なるだろう。
 スマホ画面を見せつける、私のドヤ顔が一転、急に100万円貸してと言われたように黙り込み、かつお節のように動悸で僅かに揺れている。
 店員は、私のことを滑稽だとでも言いたげに、ねめつけているのだろう。

 ルミ子がプロポーズの返事をするときは、日の光が部屋に差し込んでいた。作品を観ればわかることだが、これは、ルミ子がイメージする印象を、視点へ反映しているのだ。
 これを見事という。実際の天候や見え方は、関係ない。

 滑稽、いびつ、過剰に見えるものこそ、真実なこともある。
 ルミ子の義母は、ルミ子に対して横暴な振る舞いをする。こんなことをされたら、気が狂うと思うくらいに。
 義母は、新製品を発表する社長のように、一方的で饒舌にまくし立てることもあれば、湖の波が荒れるように、声の調子が狂うこともある。
 これを過剰という意味で怪演と呼ぶ人にとっては、義母はユニコーンのように幻の存在なのだろう。
 私は、作中の義母がする振る舞いを、現実で見たことがある。義母の演技は本物と見間違えるほどだ。
 10億ドル以上の価値を持つ、ユニコーン企業が実在するように、義母の演技も幻ではない。
 映画館では、義母がルミ子を責め立てるシーンで、泣き出した人もいた。

 ここまで書いてきたように、作品にこだわりが詰め込まれていることは、今や明らかだろう。
 演技は感情の会話に思えてくる。
 感情が素手でえぐりだされるとは、こういうことか。

母性とは

 他人の母性をどうやって知るのか。自分の母性をどうやって知るのか。
 我々はエスパーではないから、人の心は読めない。物言わぬ猫の言葉を翻訳できないのと同じく、人の心もセンサーでは計り知れない。
 だからこそ、他人の視点を知ることが重要なのだ。
 安易に辞書やネットの定義づけのみで納得してはならない。それは、理解するよりも先に納得しているだけだ。過程を通して理解を得る。

 作品の終わりに、娘は自分の在り方を問う。
 私はどっちかな

私を壊した

 映画『母性』は、母と娘の視点に着目して、人の心を知ることができる。
 そして、母性について考える作品だ。
 母性について考えたとき、想像の範囲外のことも得られるかもしれない。

 私はわからない何か、足りない何かを感じたとき、他人の視点に答えを求めることがある。何が足りないのか、わからない。そこで何かを見つけたとして、自分に合うのか、わかるはずもない。
 そんな無謀な欲求に憑かれるとき、映画や本を観たくなる。
 自分に合うような答えを見つけるためには、物語や過程が必要なのだ。背景を知り、感情を知り、共感する。
 そうして見つけたものが、妙に腑に落ちることがある。他人の人格、思想、感情が私の一部になっていく感覚。自分に馴染むのだ。
 私の存在など、なかったことを思い出す。
 視点を知ることで、私をつくるのだ。

 愛能う限りとは


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