村田高詩HOSTORY 2
2019.5.6
国鉄を辞め、生まれ育った北海道を出て、布団と画材とわずかな衣類だけを背負い汽車で上京した父。
国鉄時代に貯める筈だったお金は結局貯まらなかった。貯金はほとんどない。
先ずは、一足早く上京していた知人のアパートに転がり込んだ。
札幌のデッサン教室で知り合った翼夫(ヨクヲ)さんは桜ヶ丘に六畳一間の部屋を借りていた。
六畳一間。
ヨクヲさんもよく転がりこませてくれたものだと思う。
ヨクヲさんはマネキン会社「七彩」の試験採用中だった。遅れて上京した父は、自らもこの試験採用に無理矢理潜り込んだ。
(*七彩=今年で創業73年を迎える老舗かマネキンメーカー。初代社長の向井良吉氏は彫刻家でもあった。)
試験採用期間は半年。
マネキン会社で働きながら、日々画廊を回った。
ときわ画廊、田村画廊、シロタ画廊、ルナミ画廊、南画廊、東京画廊、南天子画廊、村松画廊、荻窪画廊…
60年以上経った今でも父の口からは当時の画廊の名前が次々と出てくる。
その大半は、今はもうない。
村松画廊で父は、のちに世界的な現代美術家として活躍する真板雅文さんに出会う。
下駄履きに風呂敷というこ汚い格好で画廊巡りをする父を真板さんは面白がり、何かと面倒を見てくださったと言う。
七彩での半年の試用期間はあっという間に終わり、父とヨクヲさんは不採用となった。
「油粘土でマネキンの試作やらされたんだけど、筋肉質で不細工なのが出来てな…こりゃダメだと思ったよ。金内は道連れでクビになったようなもんだな」
と父は笑った。
六畳一間に押しかけられた上に道連れにクビになるとはヨクヲさんもとんだ災難である…
七彩をクビになった後、父とヨクヲさんは横浜港で沖仲仕(おきなかし)をして食いつないだ。
沖仲仕とは…
港に着いた貨物船からの荷下ろしや荷揚げをする人のこと。朝、指定された集合場所に行くと、手配師が居て、必要な人数だけトラックに乗せられて現場に運ばれる、要は日雇い労働者である。
船は、憧れの国の匂いを運んできた。
ゴミ箱に捨てられたカチカチになったフランスパン。麻袋からこぼれたカカオ豆やコーヒー豆。
沖仲仕の日は沢山ポケットのついた服を着て行って、床にこぼれた豆やカチカチのパンをポケットいっぱいに詰めて帰った。
住込みの新聞配達もして、個展を開く為の資金を貯めた。
一年間かけて貯めた個展資金を持って、父はある画廊に予約申し込みに行った。
その日受付にいたのは、武蔵美を出たばかりの笹山由美子(後の母)だった。
持って来たお金を払おうとしたが、見つからない。
部屋に置き忘れたのか、と思い寮に戻って探したが見つからなかった。
その日の夕方から同僚が消え、それきり帰って来なかった。
一年間の蓄えを全て失った父は、友人知人から借金をしてなんとか個展の申し込みをした。
村田高詩22歳、笹山由美子21歳。
そんな風にして二人は出会った。
2023.4.24
*村田高詩HOSTORYはここで終わっています。
この後、父の持病(パーキンソン病)が進行し、聴き取りが難しくなりました。
この後のことは私が昔、父母から聞いた話を思い起こしながら書いてゆくしかありません。