![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/173534241/rectangle_large_type_2_df9e419eddf7e822945f9f958576722d.jpg?width=1200)
ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ、を読んで率直に感じたこと
あえて、乱暴にもこの漫画を一言で表したいと思う。
「世界をどう見て、どう動くのか?」
これじゃないかと思った。
もしくは、「どう夢を見るのか?」と付け加えてもいい。
陰謀だと思って世界を見れば、
いろんなものが陰謀に見えてくるし、
それこそ人の行動や、存在でさえも何かの仕組みだと思ってしまうことにもなる。
ズルいなと思うのは
「無いものは証明できないところ」だ。
だから陰謀論は完全に否定しにくい。
「否定するのはやましい気持ちの裏返しなので肯定を意味する!」
という論理もなかなかズルい。
まあでもこういう論調って人間が言語を会得して、
発展させた上で発見された、大事な一手なのかもしれないね。
ややこしさは増したけど。
同漫画の4巻ではこういうことも書かれている。
「難しいのは、陰謀論が適切でないとしても、だからといって権力の言うことを全て鵜呑みにするのも、危険ということです。
真の陰謀と陰謀論を切り分けるのは難しい。
ですから、何事も小さな証拠を積み重ねるのが重要です。」
だからこの漫画は全体を通して、
バランス的には陰謀論を否定したい感じはあるんだけども、
決して無くせる物ではなくて、
そして、そちら側の人間にも主張や正義や立場、人生背景があって
ただ世界を混乱させようとか、困らせようとしているだけでは無いという思いすら汲み取れてしまう。
切り離せない。
じゃあ行きすぎた正義感や思いはどこでストップさせる線引きを持つの?
というのには渡辺の一言
「この世には格差がある。
搾取もあるし、利権もある。
支配もあるし、操作もある。
きっと、陰謀だってある。
この現実に、俺たちは…何か行動する必要があるかもしれない。
でも、
ーー(海外の銃乱射事件を振り返って)人が死んでもそれを疑うのは、違う。
それは心に反してる。
それに応えるように飯山の発言
「でもきっと…皆が皆、それぞれ生きて、
それぞれの世界の真理を見つけてる。
私はそんなこともわからず、勝手なこと言って…ゴメン。
ーー(私も)そう言われても文句は言えない。
きっと私が信じてる道も誰かの意図とか思惑だらけで、
誤魔化したり隠したり、陰謀を唱えてる。
確かなものなんて何もなくて、皆、陰謀の中で生きてる。
でも、それでも私は愚かだから、
目の前に渡辺君がいたら、自分の信念と経験と知識に則って、
違うと思ってることは私は違うと思うって否定したい。
本心を言いたい。」
無茶な論調で話をずらすよりも
お互いに腹を割って、お互いに持っている知識や経験などを出し合って
本当の答えに辿り着けるような対話こそが大事なのでは無いか?
という意味に私はとらえている。
この世界は運命や仕組みで作り上げられてるわけじゃなくて、
実は偶然で出来上がってるのでは無いか?
と思った渡辺はこうも話している。
そして偶然のおかげで、あの時、この公園でこの景色を、美しいと思えたんだ。
飯山さんと出会わなきゃ、出会えない景色にたくさん出会えた。
世界の動きをどう見るか?
という視点が変わったポイントだと思う。
だけどFACTの先生が言うように世界は変わっていない。
変わってないんだけど無駄ではない。
自分は動いたのだから、人に出会い、刺激を受け、熱中して動いた、勇気も持った、
行動に移した経験がしっかり残っている。
渡辺は考え方も変えている。
今日も冷凍肉(ここを仕事、と置き換えても良さそうな気がする)
は永遠に復活する。
俺の人生を、無かったことにするように。
でも、無かったことにはならない。
僅かだけど、確実に積み下ろしてる。
人生は無かったことにならない。
絶対に、ならない。
何かのせいにせず、受け入れてからまた進みだすのだ。
無駄だと思っていても、それは確実に何かになっているのだから。
それでも陰謀論者はこう言うだろうと言うのが
ラストかな。
(最後にFACTの先生がシーンですが勝手に要約しちゃってます)
日常を受け入れ、ふと吹いた風に小さな喜びを見出し粛々と生きる。
結構ですが、それで平和になりましたか?
これは茶番だ。問題は何も解決していない。
その場を凌いだだけ、結果的に主張することも、
疑問を持つことも、萎縮させてみんなが無関心になって冷笑する。
それこそ奴らの思う壺なのに。
こんな世の中に疑問を感じて、納得しない人は、FACTへ。
物語はここで終わり。
ここの部分で思ったことを書こう。
まあこれについては渡辺が問いかけた、
(実際にテロなどが起きて)ただし人が死ぬのは違うでしょう。
というところは先生は否定できなかったし、
結局この先生の素性はわからなかったけど、
大事な時に思い切って行動できず、
世界を自分の思うように変えたい、
もしくは思うように見続けたいが為に、
あとは自己否定や、自分の人生を否定したくないからこそ、
「ない物は証明できないし否定すればそれは認めてるってことだ!」
という論調で決めつけて会話をずらし続けて、
それこそ自分こそが他人の意見を冷笑し、
戦ってるように見せて現代に住み着く
思想の淀みのような物だなと思った。
そういう私、自分は陰謀に巻き込まれていないか。
いや、飯山の言うように
何かには巻き込まれているのだろう。
それによって人に「?」と思われることもあるのだろう。
その時には対話をしたい。
感情だけではなくて、経験やデータ、人の話、比較などをして擦り合わせていきたい。
チ。よりオクジーとバデーニの会話を
貼り付けて締めとします。
「自らが間違ってる可能性」を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なんじゃないかってことです。第三者による反論が許されないなら、それは信仰だ。
信仰の尊さは理論や理屈を超えたところにあると思いますが、それは研究とは住み分けられるべきでは?
ーー
実は、むしろ反論や訂正をされることが託すことの、本質というか...
ーー
そういう他者が引き起こすねじれが、現状を前に向かわせる希望なのかもしれないって思ったんです。
その姿勢を研究に採用してしまうと、
ーー学者は永久に未完成の海を漂い続ける
そうです。それでも、間違いを永遠の正解だと信じ込むよりマシでは?
ようこそFACTは4巻でさらっと読めるのに色々考えることもあって
良き漫画だった。
チ。は真実があらかじめあって
それに対して突き進むアツい話でよかったけどこちらもよかった。
ありがとう魚豊先生。
また次も出たら買います。
いいなと思ったら応援しよう!
![CHLO 熱帯魚BAR](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/161310626/profile_687268a2bb1cadf89932a253a51f97e6.png?width=600&crop=1:1,smart)