三たび、ちゃりれれ【時々ジャイアン】へ
わたしも
ジャイアンが指摘するように
「時代とは乖離」してると感じています。
ここに書くことは
わたしが
自分の意見を補強するために引用していることを
忘れないで欲しいのです。
石女
石女という言葉があります。
産まず女(うまずめ)と読みます。
妊娠しないのは
女性に問題があるという決めつけから生じた
差別用語ではないでしょうか。
現代の不妊治療にも、いまだにこの見方が残り、
日本におけるあらゆる「女性」が関わる課題の元凶は、
これではないかと考えています。
学校
学校の役割には
「社会人として将来必要となる知識、技能の習得」
「豊かな個性と社会性の発達を助長」があります。
家庭科
家庭科の学習目標は
「家族・家庭生活」、
「衣食住の生活」、
「消費生活と環境」です。
家庭・家族
家庭・家族の役割に
「経済」「生殖」「教育」「養育」「看護」「休息」などがあります。
結婚の目的ではありません。
人権教育
個人と個人との関わりについて考えることは、含まれず、
人権同和教育という名目で一般論を、
「道徳」という教科で
「望ましい価値観」を教えるにとどまっているようです。
つまり人権教育は
特論的にスポットで教えるだけで、
人格形成を継続的、系統的に教えない事が
国の方針にあると言えるのではないでしょうか。
宗教
教えの大もと、人としての規範を説くものが宗教だと言えます。
わたしは仏門での修行経験があるのですが、
「宗教」が担う、人間として望ましい在り方が
今の教育から欠落しているのではないかと考えています。
憲法が保障する思想・信条の自由 = 脱宗教が国是なのです。
我が国の宗教の一つとしての「神道」には、
世界宗教のような「教義」「教典」がありませんが、
その事と日本人の思想の根幹とは関係があるかもしれません。
「性交」に関する規定がなされている宗教さえ在る事と
大きな違いを感じます。
性交・避妊・人口妊娠中絶
極論すれば、
性交は生殖行動だと捉えて科学的な行為とするか、
人と人との抒情的な関係と捉えるかの違いが在るのに、
同じ土俵で論議している
用いている言葉は同じでも、
その言葉の定義が違っているから
噛み合わないのではないでしょうか。
人権侵害や犯罪行為と、
性交とその先の妊娠中絶を並べているのも
土俵で野球を行司が審判してるような感じがします。
ハラスメント
デートDVへの支援に関わった経験では、
被害を受けた相談者がその時
「イヤだ」と言えない「支配下にあった」ために深刻化しています。
いじめもDVも虐待も人権問題であり、
そのような問題を起こす人には
人格形成上の問題があります。
今の日本の教育は、根幹に人格形成には消極的。
正解を覚える教育にのみ熱心という大きな欠陥があります。
学校(教師)は社会性を重んじ、
社会と言う得体の知れない権威を笠に着て
同調圧力をかけるばかりで、
個性の尊重と言いつつ、
実際は協調性の対極にあるものとして個性を潰している。
自分が望まないことを
受け入れざるを得なくさせる教育が
間接的にではあるけれど
暴言・暴力などを用いて相手を支配する人格形成を
後押ししてしまっているのかも知れません。
今回、この記事を書くにあたって、
わたしのこれまでの「仕事」は、
おおげさに言うと、人権擁護だったのかも知れない、
そう感じました。
自分らしく生きることを、
身近な親類・家族、友人・知人、上司・同僚に
阻害されている人の
力になりたい。
力になれなくても、支えてあげたい。
支えられなくても、話をきいて気持ちを楽にしてもらいたい。
話を聞けなくても、寄り添ってあげたい。
まとめ
最後に、
noteもSNSです。
さまざまな意見が、絶え間なく流れています。
わたしはいつの間にか、
自分に合った流れの中にいます。
気の合う仲間を作っているように感じます。
わたしが学生であった頃に比べ、
何百万倍もの人々の考えに接することが可能になりました。
だからこそ、子どもたちには
自己決定を大切にすることを教えなければならない。
自分だけが決定して、相手を支配してはいけないことを
しっかり身につけさせねばならず、
そのため教師(学校)は子どもに人権侵害をしてはならない。
ゆえに、教師(学校)は人権意識を持って教えなければならない。
子どもたちには、
自己決定するために、今の「正解を出す教育」も必要なこと、
自由や権利にはかならず義務がともなうこと、
一人ひとりが「自分」という意識を持って生きている
それが人権だということ、
そんなことを意識している人が教師になるべきです。
サポート、ありがとうございます。もっと勉強して、少しでもお役に立てる記事を送りたいと考えております。今後ともよろしくお願いいたします。