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ともよ―手法1による
なぜか仁の音氏の記事から連想した事どもを綴ります。
友よ
夜明け前の闇の中で
友よ
闘いの歌を唄おう
夜明けは近い
夜明けは近い
この歌 聴くこと絶えて久しくなりました。
出身大学がある長崎は西の外れ。海外に向かって開かれた日本の窓であった街です。明治になり帝国大学開設の話は、すでにあった医学校や商科大学があるからと「断った」?らしい先取の気質を持つ、客人をもてなすけれど受け身気質の住人が多い街。
大学も、当時、文部省が打ち出す方針を真っ先に実行に移すような体質を持つ大学でした。
学内には小さなセクトが乱立し、教養部で学籍番号によってクラス委員に指名され、いくつものセクトに声をかけられました。右からも、左からも。
深夜までサークルボックスの一つに軟禁され、椅子に座らせられ勧誘された事もありました。
学費値上げにバリケードを作ったことも、他の自治会委員とともに団体交渉に加わったこともありました。
学部生になると民青系執行部の一員となり、学部との交渉でプレハブの学部自治会会館を建てさせました。
とても温和な学生運動でした。
それでも中央からの指示を受けたセクトの殴り込みがあり、日頃は運動を横目で見ていた学部生が教室から飛び出して来て参集対峙し、撃退したこともありました。
当時、学生の足は徒歩。せいぜい自転車。原付バイクは中古で三万円が相場。長崎では2食付四畳半の下宿代に相当しました。徹夜のアルバイトの日当は二千円。焼き鳥は一本30円からありました。そうそうガソリンはリッター90円だった。
学生運動とは呼べない関わりです。それでも世の中を変えようという若者があふれる時代でした。当時の似非運動家はみんなサラリーマンや役人となって、酒を飲んではフォークを歌って、年老いている。
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