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レッテル貼りと言う自分への呪詛から抜け出すのが今年の目標
去年お寺と教会の親なきあと相談室横浜香仙院支部(現横浜支部)の講演会でも話したのですが、都内にある某大学病院の心理テストの回答が採点した方には気に入らなかったようで…
「あんたは生きている価値無いよ」
と14歳の時に言われて比叡山行院を遂業するまで引きずって生きてきました。
行院最終日の朝に今東光大僧正が極道辻説法にて説かれている
神仏は無意味に生かせはしませんし、無意味に殺しやしません
と…。そこから…
そうか、自分は生きている価値がないと思っていたけれど、神仏は生かしておく価値があるから生かせてもらってんだ
と思うようになってから私も生きていていいんだと思うようになりました。比叡山行院で自分は神仏から見たら生かしておく価値があるんだろうという気持ちまで到達しましたがいったりきたりの繰り返しでおりますが…
がむしゃらじゃなくていい いまのやり方がある 君はもう大丈夫 誰とも違うんだから
やっと自分を認めてあげていいんだという気持ちになれたのは声優の國府田マリ子大姉の世界はまだ君を知らないの文句でした。
本当にいつまでもマリ大姉に依存せず自灯明として生きていけるよう精進せないかんとは思ってます。
でも直ぐに「自分はろくでなしだ」、「半端者だ」「味噌っかすだ」とか自分にレッテル貼りまくっています。
「味噌っかすの坊主」云々については、世間知らずの引きこもりが今東光読みすぎて斜めに世の中を見る程壊れていたのを団体生活出来るようにリハビリをして下さったお上人がおられました。
最後は根を上げてパワハラ指導になってしまい、私も心が折れて自殺するか亡命するかという処まで追い込まれました。
その環境の会話で「君は内の寺じゃなきゃ味噌っかすの坊主になる」と何度も言われていたので心にこびりついていたのです。
ついつい自分から変なレッテルを貼ってしまうのです。
外からの影響でレッテル貼りまくるパターンに、目上や年上の人で
「私は琉球王朝〇代目〇〇王の末裔で…」(どうも分家の分家の士族だったらしい…)
とか、
「私は某所で荒行〇回やってきたから」
とか、
「10代に某禅寺に入って修行して…」
「私はハーバード大学を出て…」
とか誇れる(?)ものをお持ちの方々に比べると自分はと…
何もできない生きている価値無いと大学病院でも言われたし…
の繰り返しになるんですね。
また自分もついつい
「こちとら小学校しか出てないからな」
とやってしまいますしね…
高認取って大学の一科目だけでも科目等履修生で通学してんだから阿呆は止めた方がいいなと最近思いました。
なんにしても、他人さまから言われた事が自分に突き刺さる事は多々あります。それを元に執着したり依存したりするのもまた自分自身な訳です。
過去に捕らわれているというのは肥溜めに手を突っ込んで居るような物です。
味噌っかすの坊主と言えばふとTwitter(X)で愚痴をつぶやいた時に鴨川の釈迦寺の影山上人とこのようなアドバイスを頂きました。
![](https://assets.st-note.com/img/1736592408-EzHt2IXiPjUuY9orbxkJgmLF.jpg)
![](https://assets.st-note.com/img/1736592882-g8bcmq6l4BhKCJ9FzQXSTD2Z.jpg)
このお坊さんごっこと言うのはまずは僧侶としての生き方をしっかりやらずに組織で活躍僧侶を目指すなという意味だと私は解釈しました。
味噌っかすの坊主云々のネタ元の方は勤め人というか現代日本仏教の法人組織に生きることを前提でお考えのようなので…
噛み合う訳無いんですよね、私は10代には組織になじめないからドロップアウトしているのですから…社会復帰させたかったんでしょうけど…
だってお釈迦様は究極のリア充からすべて捨てて出家しているのですから、
大正大学で基礎仏教学の授業で初期仏教を学んでインドから日本に渡ってくるまでの間と時代の積み重ねで色々と変わりすぎているなとは思いました。
お坊さんごっこするなら組織政治の僧侶では無く私は明治に禁止されて絶えた坊主もどきの芸人の願人坊主の方がいいと思っています。
第一私はたしかに天台宗で得度して比叡山行院を遂業して、灌頂も授かっていますが中身は法師の皮を着た畜生であり、好く言っても半僧半俗の修験者なのです。
俗の中で働きながら御縁ある方々にポイズンドラム(毒鼓の縁)になろうとも生きていく人間なのです。
何故このような文章書いたか? それは先月私の全部を否定されたからです。
向こうにしてみれば認める訳にはいかないんでしょうけれど…宗門の役職も無いから駄目とか、しまいにゃ修行の履歴どころか天台座主様から頂いた度牒も全てを否定され…
私の心にはポイズンドラム撃ちこまれました、やはり自分は駄目な人間なんだと…
ふと五日に他人様が自分を擁護するために依存として発する
「私はハーバード大学出た学者…」
とか
「自分は荒行〇回入ったから…」
とかいう私より凄い人たちと比べて自分で自分に変なレッテル貼ってるなと気が付いたので今年は自分にレッテルという呪詛を貼りつけない事を目標に生きることにしました。
座右の銘は「兵法三十六計逃げるに如かず」なので全否定してくる方々から逃げます。兵法三十六計 走為上に一度逃げて体制たてなおせとありますし…
某出張所の覚悟等出来ておりませぬでも書いておりますが坊主になる前に横浜のパッチアダムスと呼ばれている精神科医の先生に「繋驢橛」(けろけつ)という言葉を教えてもらいました。
驢馬が橛(けつ=くい)に繋がれていてグルグル回り縄が絡まって同じ所から動けない状態をさす禅の言葉だと習いました。
思考が堂々巡りになった時は深呼吸して手離して他の事をしなさい、心理学ではタッチアンドリターンと言って物理的に壁なり机に触るのでもかまいませんよ。物理的に気分転換するのです。と、習いましたけれど余程訓練されてないと出来ません。
私が常々「ケセラセラなるようになる」というのは私自身が堂々巡りで同じ所をグルグル回る人間なのでなるようになると腹に力を籠めて生き延びてきたからです。
ただ諸行無常なので思い出しては忘れて、また思い出すの繰り返しになるんだと思います…
最後に國府田マリ子大姉の御言葉を貼りつけて締めます
傷ついても 昨日の君が言う 『もう昨日までの僕じゃない!』