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AI自由会話とRPGは相性悪い気がするのだけどどうでしょう?

AI自由会話とゲームとくにRPGについて思うこと。

自由会話の活かしどころはたぶん村人モブNPCじゃない。村人との会話って、謎のノリに付き合わされたりよくわからない話を聞かされる"一方向性"に満足してきたのだし、立ち止まって特定の1人と深く話すのではなく、歩きまわって多人数と絡んで情報収集するのがRPGの"型"だったはず。そこには移動した分だけ得をするという根本の仕組みがあって、移動せず1人に対して質問攻めした分だけ得をする仕組みを持ち込むと、壊れるものがある。書いてて思ったのだけど、そもそも移動の概念と会話の概念って食い合うところがあるのかもしれない。狩猟民族より農耕民族のほうが会話時間が圧倒的に増えた的な文化人類学のデータがあったりするかもしれない。

AI自由会話を活かすなら、長旅を共にするパーティメンバーとの会話に活かすのが圧倒的に"正しい"。というのも、今までも単に端折られて描かれてこなかっただけで、RPGでは旅の途中のふとした時間や長い夜に、パーティメンバーと無数に会話してきたはずなのだから。自由会話をそもそもしていた"はず"、のところにその機能を入れるのは理にかなっている。最近FFX歌舞伎を見たのでFFXで思い出すと、ユウナや他のメンバーとの旅の思い出をより濃密でパーソナルなものとして胸に抱いてエンディングにいくととてもエモいと思う。

ただ、よりパーソナルであるということは、より一層みなが同じものを体験しないことにつながる。人それぞれ道中の会話が違い、エンディングもことごとく違うとしたら、単純にやるとストーリーはゲームデザインにおいて"自由会話システムの下位存在"に落ちてしまう。それを逆手に取ったメタいストーリーテリングはありそうだけど。あるいはエンディング共通の場合は、パーソナルな道中との整合性を取らないと気持ちのズレが発生してしまう。ゲームは映画と違ってプレイヤーごとに異なる体験をすることに対して包容力があるけど、ストーリーと自由会話もまた、本来的に相性が良いものではない。小説も映画も「私」は自由会話しない。これは"一方向性"と"双方向性"のあいまの悩み。

もっと単純に、自由会話はゲームの主人公とプレイヤーの関係を壊す。主人公と幼馴染の村娘は互いを知っているが、プレイヤーはゲームをプレイするまで知らない、だから"Role-Playing"するのだけど、会話の自由入力するのは主人公ではなくプレイヤー自身なので、Roleをしばしば逸脱してしまう。村娘に執拗に「知らない初めて会った」と迫ることもできる。なので自由会話でRPGは根幹部分で壊れる。

いやそんな旧時代のRPGの話じゃなくてゲーム世界を主人公=プレイヤー自身で文字通り生きる新時代がAI自由会話によって始まるんだよ、別物になるんだよ、ということであれば、今度は別問題として「人は知らない人とはほぼ会話しない」「言い間違いで取り返しのつかないことになる」「緊張して話しかけるの無理」「そもそも声発するの面倒」等の現実世界との調停が必要になってきて、ゲーム内でもNPCと非同期コミュニケーションしたくなってLINEやslackで会話するようになるかはさておき、それはゲームなのか?というところに返ってくると思う。それに「こちらから話かけるまで黙っていて、かつ呼びかければ無限に話してくれる他人」なんていう都合の良い存在は、彼らの世界をリアルを模した空間にすればするほど、そこに存在するリアリティがなくなっていく矛盾がある。どっちかというと勝手に話しかけてくるNPCのほうが良い感じに怖くていいかもしれない。

AI自由会話は無邪気にRPGなどの型の上に乗っけるとけっこういろんなものを壊しそうなので、自由会話が必然性を持つゲームや人間の営みに向いた使い方ができているかが重要になると思う。

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番匠カンナ@バーチャル建築家
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