葉桜のひと
「満開の染井吉野より、葉桜のほうが好きだな」
彼はよくそう言っていた。
「どうして?」と聞いても、答えが決まっていて「美味しそうだから」。
「美味しそう?」
「うん。だって、桜餅の様でしょう?」
桜の淡いピンクが、徐々に鮮やかな緑に置き換わっていく様が、好きなのだと。そう言っていた。
いつも、町の図書館で会っていた。
待ち合わせをしていた訳ではなくて、なんとなく、予感がして行くと、居る。そんな関係だった。
いつも、窓際の、一番端っこの机に行き、静かに本を読む、少し真剣な、でも、優しい横顔が好きだった。私も、手元に本を持っていたけれど、図書館にいる時間の殆どは、彼の横顔を見ていた。たまに、目が合うけど、彼は嫌な顔もせず、少し照れくさそうに、すぐに本の方を向いた。
図書館を出て、たまにはカフェにでも、と誘おうとすると、天気が良い日は散歩をしよう、と言った。散歩に向かない日は、寂しそうな顔をして、また、今度会おうね、と言った。だから、単なるお散歩仲間、図書館仲間。それ以上の関係には、進めなかった。
ある日から、彼の姿を、図書館で見かけなくなった。何度足を運んでも、毎日のように、閉館まで待っていても、彼に会えなくなった。
私は、彼の横顔ばかり見ていて、連絡先の一つも知らない。会えなくなってから、そのことに気が付いて、自分の愚かさを呪った。為す術もなく、図書館で待つしかなかった。
ひと月ほど経ち、図書館へ向かう足が重たく感じるようになったころ、女性に声を掛けられた。私より少し年上の様な、落ち着いた感じの、綺麗な人。その人は、ゆっくりとした動作で、私の前に写真を置き、言った。
「この人を知っていますか」
彼だった。はい、詳しいことは何も知らないけれど、よく一緒に、ここで本を読んでいました。そう答えると、その女性は笑顔でこう言った。「葉桜は、好きですか?」
彼は、2週間ほど前に亡くなった、そう教えられた。
自分は彼の姉で、亡くなる直前に、私のことを聞かされたそうだ。
図書館の窓際の机で、何日もひとりで過ごしている女性を探して、手紙を渡してほしい、名前も連絡先も判らないけど、きっと、僕に会いに来てくれる。だから、何日も一人で、同じ席に居る女性を見つけてほしい。そう言っていたそうだ。
先天性の疾患で、小さなころから入退院を繰り返していたが、この数年は病状が良くて、よく出かけるようになっていたそうだ。友達もいなくて、寂しそうだった彼が、図書館によく通うようになって、少し明るい表情になっていたそうだ。
どういう気持ちだったか、よく思い出せない。きちんと挨拶ができていたのかも、判らない。ただ、鉛のように重たい手をようやく動かして、手紙を開き、そこに書いていた短い文章を読んだ。
「
一緒の時間を過ごしてくれて、ありがとう。本当は僕も、カフェに行きたかった。もっとたくさん、あなたと話したかった。でも、すぐに別れが来ることが分かっていたから、怖かった。
短くつまらない人生だったけど、終わりの方で、花が咲いたような日々が過ごせた。葉桜が美味しそう、なんて、誰かに話せる日が来るとは思っていなかった。うれしかった。幸せだった。本当にありがとう。
」
また、春が来る。
桜餅の淡い香りとともに、彼の優しい横顔を思い出す。
満開の桜は派手に散るけど、葉桜は、いつの間にか新緑に置き換わるよね。
そんな人だった。