『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
今回、ジョーカー続編の感想を書くにあたり、前作の感想を探してみたら、案の定、絶賛であった。なので、続編が発表!しかも、ミュージカル!?その上、レディ・ガガがハーレイ・クイン!?と聞き、期待が増すどころか、不安が増すばかりであった。だってさあ…前作で一応きれいに完結している訳じゃないですか。どうすんだこれ。と思うし。そうこうしているうちに、聞こえてくるのが、賛否がまっ二つに分かれているらしい。というかむしろ否の方が多いような…となり、また逆に観たい度が高まってしまったのだが…
観た結果からいうと、私自身は十分楽しめた。が、世間で批判されているのもなんとなく分かる気がした。理解はできるが、「でも元々そうなんだからしょうがないじゃん」というのが私の意見である。
批判の理由のとして挙げられているのが、ハーレイが仲間になる経緯が原作と違うことがファンに受けが悪いとか、「クライマックスがない」ということのようだ。だが、先ほども言った通り、これは「そういうもんじゃん」と反論したいので、擁護の論陣を張ってみたいと思う。
まず、1作め『ジョーカー』を観た時、私はショックを受けると同時に、この映画が社会に与える影響について懸念を抱かざるを得なかった。実際、映画に影響を受けた事件が相次ぎ、なんとなくこの映画自体を話題にすることが憚られる雰囲気になった。私はその責めを映画に負わせようとは全く思わない。が、、何かそういった事件があるたびにモヤモヤした気持ちになることも否定できないし、この映画を語る上でそういったものを全く無視することもできない。つまり前作『ジョーカー』はひょっとしたら、作り手の意思を越えたものになってしまったのだろう。
したがって、続編を作るとなった時に、1作目が生みだしてしまった映画内外のジョーカーのフォロワー達(本作オープニングでは「影」として表現されているもの、また、ハーレイが代表しているもの達)に対するアンサーが主題になり、結果フォロワー達が望む「ジョーカー」という役からアーサーが降りてしまうことになるのもまた必然。というより、先のことを考慮すると、そういう形でしかこの続編はあり得なかった。
またその過程において、映画外のフォロワー達をドライブさせるような演出は、アクションであろうと、悪のヒーローの活躍、暴力であろうと、あるいはミュージカルであろうと、控えることになるのも必定の流れと思う。つまりこの映画は、その存在理由から「盛り上がりようがない」のだ。せいぜい火事や爆発や、法廷でアーサーが暴れる妄想をするとか、その程度で、それ以上はやりようがない。その辺ちゃんと抑えがきいていたのはある意味見事と思った。DCやバットマン映画として観てしまうと、あれ違うこれ違うとなってしまいそうだが、私は1作目に対するアンサー映画として、まっとうしたことを観ることができたという意味において、満足と言いたい。