マダム・ウェブ

聞こえてくるのがネガティブな評価ばかりの中、火中の栗を拾いに『マダム・ウェブ』行ってきた。
これ、そもそもヒーロー映画の題材としては無理があると思う。なぜなら、未来を予知でき、タイムリープによるやり直しも可能って、どうみてもヴィランの能力だし、やり直し可能というチート=万能性が、ヒーローアクションの緊張感を削ぐ結果になってしまうため。それに対し、映画はマダム・ウェブの能力発動に制約を加えることで、なんとか成立させていた。その努力は認めてあげなきゃと思う。事実、地下鉄のシーンまでは、主人公の能力を少しずつ見せるなど、周到に物語を進めており、期待もできた…
また、舞台が2003年ということで、音楽などで時代感をうまく出している。ビヨンセのアルバムポスターもそうだし、ひょっとしたらクモの毒にひっかけてるかもしれないブリトニーの"toxic"(私も大好き)の進行具合をうまく使って、ループしていることを曲で示せているのもよい。今調べたらシングルリリースが2004年となっていましたが、見なかったことにする!それでもティファニーが登場してこけたけど。
それと、2003年で「GPSついてるから!と携帯を投げ捨てていたけど、2003年にGPS搭載携帯端末ってそんなメジャーだったっけ?日本では本格的に普及は2007年となっているけど…
まあ細かいことはいいとして、問題はその地下鉄シーンから。まず、ヴィランであるエゼキエルは、3人の女性ヒーローに将来やられる夢を見続け、それが未来の出来事と確信して彼女らを殺すことにした。が結果としては、彼が殺そうとしたことでキャシーと出会い、彼女らがヒーローとして覚醒する訳です。つまり彼がそこで何もしない選択をすれば、彼女らはヒーローにもならず、殺されることもないと思われます。ここはちょっとパラドクシカルだ。
しかも彼がひどいのは、3人集まった時を狙って一挙に殺そうとすること。結果、ウェブと3人の少女には顔を見られることになるが、場合によっては他の人に見られている可能性もあったはず。3人が特定できたなら、こっそり一人ずつ暗殺すればいいのにと思ってしまう。その後の行動もとにかく短気すぎ。そんな奴がなんで母親がクモを発見するまで我慢できたのか、信じられない。
キャシー側にも問題が。彼女らを救おうとしているのに、なんですぐほっといてどこかに行ってしまうのか。2度も。これは残念ながら物語としての緊張感を削いでいると思った。初対面の出会ったばかりの、誘拐してきた少女たちがほっといた後どう行動するか、予知できなくても想像できそうなものだ。2度めのペルーに行く時くらい、連れていってあげればいいのに。
あと、少女の誰か忘れたけど、エゼキエルを見て、「まるでスパイダー…パーソン?」と言ったのには、これは何かの忖度が働いてそう言わせているのかと思った(時代的にそこは「マン」が自然じゃない?)。

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