憐れみの3章

監督:ヨルゴス・ランティモス
3章のオムニバス構成
同じ俳優が3章でそれぞれ別の役を演じる

という事前情報だと、今年同監督作の『哀れなるものたち』に比べると、大作感はないし、どうしても見劣りしがちだよね。実際、配給会社も、原題が『KIND OF KINDNESS』なのに、「あわれ」を邦題につけたのはあやかりたい意図だろうし。
ところがやはり、蓋を開けてみないと分からないもので、好みでいうと私はこっちの方が断然好き。3章の話それぞれが、気のきいたオチになっているし(既視感があり、それが何なのかは後に判明)。それぞれがバラバラなようで、一貫したテーマがある(オープニングに私も好きなユーリズミックスの『Sweet Dreams』をかけることで「利用される人」「虐待される人」がテーマであることを示している。
ちなみにこの『Sweet Dreams』は1983年の発表だが、オーウェルの『1984年』にちなんだMVだったように記憶している。違っていたらすまん)


それに、スターシステムをとったそれぞれの3章について、ジェシー・プレモンス、エマ・ストーン、ウィレム・デフォーらの演じ分けもまた楽しい。
唯一不満といえば、予告編のエマ・ストーンの踊りが本編じゃなかったことぐらいである。

更にこの映画について町山智浩さんがYoutubeで解説動画を上げてくれている。この動画では、ギリシア悲劇とのつながりについてなど、気付かなかった情報が数多くあり、参考になる。ギリシア悲劇と富野由悠季作品の関係までつなげたのは、誰にも出来ないことと思った。無料で観られるのでおすすめ。

ただ、1点、町山さんの解説について疑問を呈したい個所がある。それは、第3章のエンディング。エマ・ストーンが車で暴走して事故を起こし、せっかく見つけた能力者を死なせてしまう場面について、町山さんは、「これはデウス・エクス・マキナ」だとしている。デウス・エクス・マキナとは、町山さんが説明している通り、機械仕掛けの神が突如出現するように、物語が突然予想しない方向に無理矢理展開、または終わさせられることを指す。しかし、この第3章では、エマ・ストーンは「contaminated(汚染した)」ために教団を追放され、能力者を連れてくるしか一発逆転の道はない、追いこまれた立場にいる。能力者を拉致するまでもかなり無理をしており、ダメもとでいつ失敗してもおかしくない状況の上、急いでいるのでいい車を暴走させ、かなり危なっかしい運転をしている。これは、事故に遭うことは「予想できないこと」とは言い難いし、こういう状況の場合、「無理してもうまくいかない」という方が、自然の成り行きに思える。
なぜここまで反駁したいかというと、この終わり方は私がかなり好きだからである。ありがちかもしれないが、好きなので、「デウス・エクス・マキナ」扱いにはさせたくないのだ。


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