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国葬の日

これは、2022年9月27日、安倍元首相の国葬が行われた日を撮ったドキュメンタリー映画である-
と聞いて、今いち私の気がのらなかったのをわかってもらえるだろうか。
その日都内では献花に並ぶ人がいる一方、国葬反対デモも盛り上がっていたことを我々は知っている。でもただその主張をぶつけあうだけでもねえ…となんとなく内容を予想して勝手に思っていた。
ところが、鑑賞してみると全然違った。映像は喧騒ではなく、いつもの都内の朝の静かな風景で立ち上がる。ナレーションもつかない。皇居をマラソンで走る人、通勤の人たち、開店前のパチンコに並ぶ人-。
そして、同じ日の、日本の別の場所の風景が次々と映しだされる。京都、北海道、山口、奈良、沖縄、福島、広島、長崎、清水。山口は安倍氏の地元であり、福島は第一原発の近く。奈良は安倍氏が銃撃され亡くなった場所であり、沖縄は辺野古のゲート前。清水は、数日前に水害にあった場所。それぞれ意味があるとはいえ、バラバラだ。そして、それぞれに取材班を置き、人々に話を聞いていこうという趣旨のようだ。しかし、この映画の監督は一人である。同日に複数箇所で取材するのだから、当然監督がすべての場所でコントロールするのは不可能である。が、本当にそれでいいのだろうか?
が、それでよかったのである。映画の中で監督自身が、「日本は今賛成派と反対派に分断されている」と語るシーンがある。しかしそれはあくまで国葬当日の感想で、地方で取材した映像を観てのものではないはずである。地方で取材した内容は、その想定とはまったく異なるものだった。
もちろん、沖縄や福島、それに清水では、はっきりとした反対意見が述べられた。しかしそれは、どちらかというと非日常に置かれた人々、そこで立ち止まって考えている人々の意見である。それ意外は、ほぼ日常に置かれた人たち、イベントの撤収作業をしている人、披露宴の家族、カフェに集まった人、ただそこにいる人たちで、その人たちの意見は無関心であるか、賛成でも「どちらかといえば」というただし書きつきの意見、しかも理由が「長く在任していたから」とか、ぼんやりしたものだったりする。つまり明確に分断しているのは一部だけなのだ。ほとんどは無関心に近いか、周囲を気にして意見を表明しないなど、極めて日本人的なのである。答えてくれた人たちはまだいい方で、映画の取材でも相当数に断られているはずだから、その割合は最後のテロップに出ていたように、献花をした人28000人+反対デモの参加者15000人対、その他大勢1億2000万人にほぼ近いはず。そういうその他大勢の人たちは無関心であるがゆえ、対象について深く知ろうともしない。曰く、「国葬の日を知らない」「安倍を『大統領』と呼ぶ」「国葬は国民が選んだ国会、内閣で決まったことだからと言う」など。そしてこれらの無関心が、自民党政権を存続させている本質なのだろう。この映画は図ってか図らずか、その本質をむきだしにした。そこがドキュメンタリーとして、過去の大島新監督の『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川一区』よりも優れた点だと私は思う。
なんとなく『はりぼて』のように絶望にかられて終わりそうなところを、清水で被害にあった家の片付けをボランティアで手伝う清水東高のサッカー部の子達に救われた。彼らは純粋にボランティアとして手伝うことしか考えていないため、手伝った家のおばさんに「ラーメン食べて」と1万円渡されても固辞し、やっともらったと思ったら取材者にこっそり「これは寄付する」と打ち明ける。日本の未来に一筋の光を見た。

以下は余談。この映画はネツゲン製作であり、前田亜紀氏がプロデューサーを努めるが、このコンビといえば『劇場版センキョナンデス』『シン・ちむどんどん』のプロデューサーでもある。実際、この三作はほぼ同じ時期の同じことを扱っており、姉妹作とも言える。監督の一人のダースレイダー氏もちょっと本作にも出演している。『シン・ちむどんどん』では、辺野古で座り込みする人々を映していたが、本作では、その座り込みの人達が警察に強制的に排除される様子が描かれており、「あ、普段からこの人たちはこのように戦っているんだ」と、自らの認識が浅かったことを知る。非日常と書いたが、これが彼らの日常なのだ。

さて、上映後のスペシャルトークは大島監督と、小説家の深沢潮さん。試写会の時に、先ほどのコントロールについての質問をし、監督を詰まらせたのだとか。私も存じあげなかったが、深沢さんは自身も在日で、皇族で李王朝に嫁いだ人が主人公の『李の花は散っても』という本を最近出されたが、その中でも先日100周年を迎え、『福田村事件』でも描かれた朝鮮人虐殺にも触れされているそうだ。この歴史は私も知らなかったので、読んでみようと思う。


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