マミー
この映画、表面上は、1998年に起きた和歌山毒物カレー事件において死刑判決を受けた林真須美死刑囚の冤罪可能性を追及する映画である。「表面上は」と書いたが、実際二村監督の本作における熱意を考えると、監督自身の意図はそこにあるのかもしれない。実際監督は家族や関係者に取材を重ね、証拠とされたものそれぞれについて合理的疑いが明らかになるまで細かく調査している。その結果‥特に監督や我々のように当時の直撃世代からすれば、「林真須美は実は無実!?」という疑いあるいは確信をいだくところで終わってしまいがちと思う。が、この映画はそれだけで終わらせてしまうのはもったいない。奇しくも同時期に公開された、飯塚事件の冤罪可能性をとりあげた映画『正義の行方』や、大川原化工機事件、鹿児島県警の隠蔽問題など、一連のもっと司法の大きな構造的問題を提起する作品の一つという位置付けに、否応なくなってしまっている。
では、本作が提起する問題とは。それは、死刑を確定するに足る証拠の不十分さだ。まず、本件に関する直接証拠とされるものはない。それもどうかと思うが、そこは百歩ゆずって、状況証拠がそれぞれ確かであればその積み重ねもありうるとしよう。が、それぞれが調べていくと、合理的疑いをはさむ余地のあるものばかり。目撃証言、ヒ素の鑑定結果、動機の根拠になったとされる保険金詐欺との関連のなさ、等々。
しかし、にも関わらず、本件が死刑確定となり、再審請求も却下されるとは、どういう状況なのだろうか。これは自分がもし、同様の立場だったらと考えるとそらおそろしい。仮に自分が何か殺虫剤を家に持っていて、夏祭りの際に家族とカレー鍋の番をしていた。それだけで、死刑にされる可能性があるということだ。
もちろん、映画で提起した「うたがい」そのものは、「林真須美さんが犯行していないことを証明」するものではない。だが、推定無罪の原則からするとそれで十分なのである。
ところで、こんなにあっさりと死刑が決まってしまったり、再審に向けた動きが進まないことには何か理由があるのか。監督の取材はそこも明らかにしてくれている。近所の内輪のコミュニティ内で起きた事件。外部犯行はほぼありえない。ということは、仮に真須美さんが犯人でないなら、近所の別の誰かが犯人ということになる。そんな疑心暗鬼を2度も経験したくないと思うだろう。たまたま、「この人がやったということにすれば」という都合のいいヒール役があらわれた。そしてそれをあおりたてることにより、捜査もその圧力に従わざるを得なかった。しかし、警察もメディアも、今さらそんなことは認めたくない。
そんな様々な事情が合わさって、余計物事を難しくしていることは想像に難くない。が、社会の構造はどこも似たりよったりであるから、これだけが特殊なケースとも言い難い。それもまたこわい話である。