『自宅で親を看取る:肺がんの母は一服くゆらせ旅立った』小池百合子著、幻冬舎、2014

はじめに

酷暑がこれでもかとばかりに続いた平成二十五年九月十六日。

わが母、恵美子が八十八歳の生涯を閉じた。肺がんだった。

一年半前、がんの宣告を受けた際、外科的手術、放射線治療や抗がん剤投与などは受けずに、残された人生を楽しく、好きなことをして過ごす、つまりがんとの共生の道を選んだ母。

それは、何があっても動じることのない、母らしい選択だった。

母とは、最期の約十五年間をいっしょに暮らした。介護が必要になってからは約十年だ。うつ症状に苦しんではいたが、幸い認知症はほとんどなかった。それだけに、母は最期まで、私に対して親として、的確な指摘を続けてくれた。周りの人が遠慮して言えないようなことも、ズバズバくる。まさに、家庭内野党だった。娘としては、それがウザったくもあり、母だからこそ言ってくれるのだとうれしくもあった。

母は戦中、戦後の荒波を乗り越え、六十を過ぎたときに、突然海外で日本料理店を開業した人だ。私よりよほど大胆な人だった。そんな人だからこそ最期は、体を切り刻んだり、抗がん剤の副作用で苦しんだりするより、自宅での苦痛や苦悩を緩和するケアを選んだ。

旅立ちは、慣れ親しんだ部屋で家族、そして母の看取りに協力してくれた人々に囲まれて過ごした。愛犬といっしょに、大好きだったたばこをくゆらせながら。

サイコーじゃないか。

本人にとっても、家族にとっても、幸せな最期だったと思う。

病院ではこうはいかない。

もちろん、最善を尽くせたかどうかは、わからない。どんどん口数が少なくなった母には、
もっと言いたいことがあったのではないか。そんな思いが、今でもよぎる夜もある。


母の死後、私はとりつかれたかのように猛烈に遺品の片付けにかかった。「断捨離するわ

よ」と私が処分を決めたはずの不用品が母の手でいつのまにか元の場所に戻っていたりと、

長年の母娘の闘いは終わっていなかったからだ。

しかし、葬儀を終え、納骨をすませた頃からは、整理にも急ブレーキがかかった。

よみがえ母が大切にしていた時計、母が繰り返し手に取っていた写真や手紙・・・・・・。母の引き出しを開けるたびに、思い出が蘇って涙がこみ上げた。留学先のカイロから母に宛てた私の手紙も、大切にしまってあった。

読み返すうちに、日付が変わってしまう。

先日も、私の「へその緒」が入った小さな桐の箱を見つけ、また涙した。


自宅で親を看取る。それは、「そうしたい」と願っても、誰もが簡単にできることではない。仕事、家族、住宅事情・・・・・・。かつて八割の人が自宅で最期を迎えた昭和三十年代と今では、社会状況があまりに異なる。

年老いた親の介護のため、会社を辞め、生活に困窮する例は枚挙に湟がない。老々介護で長年連れ添った妻に手をかけた夫が殺人罪に問われるケース。九十一歳の認知症を患う父親が徘徊し、電車にはねられ死亡した事故では、鉄道会社が遺族に損害賠償を請求したケース。人ごとではないと震え上がった家族も多かっただろう。

これらの日常的に見聞きする高齢化に伴う悲惨なケースを考えると、私たち家族は恵まれていたかもしれない。


多くの人が自宅での最期を望み、親を看取りたいと願っている。団塊の世代が親に続いて本人たちも、次々とあの世へと旅立つ時期を迎えつつある日本。終末期医療(ターミナルケア)のあり方や課題は深く、大きいからこそ、ひとつの例として参考になればと、本書を世に出すことにした。

出版にあたり、幻冬舎の見城徹社長、大島加奈子氏にはお世話になった。感謝したい。

そして、何より、私の人生の節目、節目で的確なアドバイスをくれ続けたわが母に心から感謝する。

「あなたの娘でよかった」と。



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