『長篠合戦の世界史:ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800』読書感想文


この本の原題は"The military revolution : military innovation and the rise of the west, 1500-1800"なので、タイトルの「意訳」が過ぎるように思われるかもしれない。しかし、「軍事革命」の1つがマスケット銃の普及と、それを使う斉射戦術であり、なんとその斉射戦術が欧州で導入されたのが1590年代なのである。日本史に詳しい人ならピンと来たと思うが、タイトルの長篠の合戦は、少なくとも日本で斉射戦術が大々的に導入されて成功した初めての例であり*、それが1573年と欧州より20年以上早くなっている。日本にマスケット銃が持ち込まれたのが1543年なので**、いかに急激に日本で火縄銃が普及したか分かると同時に、信長の天才ぶりが伺える。それを考えると、「日本語訳」の本のタイトルとしては、悪くないのではないかと思う。また、本書の中でも非欧州国としては日本が多く取り上げられている。もちろん、この本の主な分析対象となる近世前期に日本が戦国時代で軍事的に伸長したことと同時に、日本に情報が多く残っていることもあるだろう。もちろん、ここでは秀吉の朝鮮出兵において海戦での「やられ役」というのも含まれる。

*)近年の研究では、一時期考えられていたほど織田・徳川連合軍が快勝ではなかった可能性は指摘されている。
**)これも近年の研究で、さまざまなルートから日本に火縄銃が持ち込まれた可能性が指摘されている。同時代に中国である程度普及していたことを考えれば、これは自然なことだと思われる。しかし、火縄銃の導入が1543年よりも何十年も早くなったとしても、日本で普及したタイミングには変わりがなく、信長の評価も変わらないだろう。ただ、日本の技術が急速にキャッチアップしたという神話は少し色あせるかもしれない。

以下ではダラダラと感想文を書くが、やはり現在ウクライナで戦争が行われているため、そこと関連するものが多く取り上げられていると思う。



日本語版への序言

時代設定について

著者は欧州軍事革命が16世紀に起こったと主張している。この辺りは歴史家の悪癖で、「軍事革命」というワーディング、あるいは枠組みを設定してしまうために、「それはいつ起きたのか」という不毛な論争をすることになる。これは、「産業革命」などでも同様。こうした設定は初学者の記憶の助け以上の意味はないと思う。

意味があるとすれば、それまで別のもの、関係がないものだと考えられていた現象が、実際には関係を持つときだろう。例えば、著者が指摘する「軍事革命」の中身を見てみよう。

  1. 軍艦の舷側砲の発展

  2. 戦闘におけるマスケットの重要性の高まり、くわえて野砲による援護

  3. ヨーロッパ史上例のない持続的な兵力の膨張

  4. 「対攻城砲要塞(アーティラリ・フォートレス)」の発展

特に1, 2, 3-4に関係があるとは思えないし、著者もそれを示していない。3と4は関係があるが、それは既に十分に知られている。



0 序論

私は問題点をしぼり、ヨーロッパの軍事史を別の角度から浮かびあがらせるようにした。がんらいあれほど小さく、天然資源にもほとんど恵まれていなかったヨーロッパが、どのようにこの不足を補うだけの優勢な陸海の軍事力を築きあげたのか、という問いかけがそれである。

p. 8

こうは書いているが、海軍も含めた「軍事革命」の話をするので、少なくとも軍事面に関しては十分に総論的だし、軍事の周辺的な側面も素人目には十分充実しすぎていると思う。



1 ヨーロッパの軍事革命

分析対象が「攻囲戦」なので文脈は違うのだが、欧州では16世紀から塹壕掘って大砲で打ち合って戦っていたという事実は興味深い。


1.1 イタリア式築城と斉射戦術

当然、時代的にグスタフ・アドルフの活躍が取り上げられることになるのだが、スウェーデンから銃砲が輸出されていたというのは興味深い。この時代ぐらいから、スウェーデンは鋼の生産でも有名だった。おそらく、それが銃と砲に使われたと思うのだが、それについて調べておきたい。


1.2 ヨーロッパ辺境の軍事革命

1.3 決め手なき戦い

どれほど大規模な野戦軍を擁する国であっても、要塞、重要度の低い戦域、首都 周辺などに配置されていた兵力が、野戦軍を上回っているのがふつうであった・・・
 
守備隊や「二次的な場面(サイドショウ)」にはりつけられていた兵員の数は、じつに過小評価されやすい。

p. 55

これも忘れがちな点なので注意。ロシアはウクライナに当初20万弱の規模で攻め込んだと言われている。戦前のロシア軍の志願兵は100万弱であり、陸軍は55万程度とされている。つまり、現代で、核兵器による抑止力を持っているロシアでも、陸軍の半分も動員できなかった訳だ。このロシア軍の数字には、歴史的には軍事力に含まれる警察や治安機関の数字は入っていない。

もちろん、NATOとの戦争に備えているという面はあるにしても、35万人以上の志願陸軍兵と約15万人の徴集兵がいないと、ロシアの長い国境を守れないということになる。イスラム過激派などのリスクはあるにしても、素人には不思議に思える。もちろん、陸軍55万人と言っても、内勤の人もいるだろうし、補給部隊などの主業務が戦闘ではない兵士もいるだろうが。また、徴集兵のトレーナーも必要。

ちょっとこの辺りは軍隊の編制なんかをきちんと勉強する必要があるが、単純にきちんと訓練された陸軍の志願兵の半分は投入していない計算になる。まあ、現実には最初から投入された兵士のどれだけが使える形で残っているか不明で、半分でも計算できる兵隊を残しておかないと、それこそワグネルの反乱みたいなことを抑えることもできないし、ロシア人部隊の越境攻撃を防衛することも怪しくなるということもある。



2 戦争の需要と供給

2.1 徴発された兵隊

とはいえ、戦争が長期化すると、個々の志願兵だけでは軍隊をとうてい維持できなくなる。そこで政府は、兵士徴発に新たに三つの方法を採用することになった。第一は、コーロッパの部隊をまるごと徴発し、はるか遠くに派兵するやりかたである。

p. 68

ロシアのチェチェン部隊を思い起こさせる。


こうした「志願兵」のなかには、拘束されて入隊した者もあった。処刑を免れるかわりに、兵役による実質的な国外退去に応じた者たちがそれである。

p. 69

ワグネルが用いた手法。


入隊は事実上、死刑宣告に等しかった・・・脱走を含むあらゆる原因によって生じた(人的)損失は、二〇パーセント以下であったことがわかる。

pp. 74-76

昔の感覚で戦争をしてると、兵士が死んでも何とも思わない。


近世には、作戦中の軍隊の全員または一部が、指導部にたいして謀反をくわだてることはめずらしくなかった。

p. 82

プリゴジンさん(笑)


2.2 最後のエスクード

2.3 物資補給の壁

一六~一七世紀の大半のヨーロッパ諸国の政府は、軍隊規模の膨張と価格革命がひきおこした問題に、おいそれと対処できるはずもなかった。かくして兵士一人ひとりに手当を支給するという昔ながらのやりかたはしだいにすたれ、一種の行政委任方式がとられるようになった。すなわち、各国政府は自分の手には負えなくなった兵力編成を、個人の請負業者や企業家に金を払ってゆだねたのである。

-p. 89.

プリゴジン再び。

現代の感覚からすると辺に思われるだろうが、特に近世はまだ行政機構が未発達で、外国人兵士に依存する部分が大きく、特にドイツやイタリアはまだ小国家に分裂していたことを考えると合理的なシステムだった。もちろん、「危機の17世紀」に年がら年中、戦争していたというのも前提だろう。

これらの軍事企業家になるための前提条件は経済力であった。不思議なことに軍功は必須要件ではなかった。マンスフェルト伯エルンストやドド・フォン・クニュプハウゼンのような軍事企業家の軍隊の例をみると、敗戦につぐ敗戦を重ねながら、ただ組織能力だけで自軍を統括しおおせたようにみえる。しかし軍事企業家は、事業を成功させるためにも富が必要であった。

p. 89.

まあ、プリゴジンは一応勝ってましたが。ただ、経営者自身は商売人で良いというのも、プリゴジンと同じ。おそらく、過去にも「軍功」がある人を軍事部門の担当者としてスカウトしていたのだろう。ただ、戦争をするには、徴集、訓練、兵站も必要で、これらは経営者としての能力が活かせる部分が多いと思う。

軍事管理委任システムの第二の限界は、業者が現実に支給した装備ほとんどが、要求を満たしていなかったことにある。これはむしろ仕方のないことだっただろう・・・兵士ならだれでも知っているように、今日の主計将校でも、これらの装備品目がひとつのこらず不良品もなく完全な状態で支給されると確約できはしない・・・とはいえ近世の軍隊には、とんでもない粗悪品も少なくなかった・・・内乱期にアイルランドで指揮官をつとめたプログヒル・ロジャー・ボイルは、自軍が戦闘に負けそうになったのは、支給された銃弾が手持ち武器には大きすぎたせいだとぼやいている。兵士たちは「やむをえず銃弾を噛みちぎるか、切断せざるをえなかった。これにずいぶん時間をとられた。銃弾はうまく飛ばず、的中率も悪かった。そのうえこういうしだいで間がしばしば空くので、敵にわれわれの士気が低下したと思いこまれ、かえって元気づけてしまったのがまずかった」

pp. 91-94

もう既視感しかない。ただ、現代の目で言うと、成果を出せない現場指揮官の言い訳という側面もあることも分かる。



3 海上の勝利

ヨーロッパ勢の海外進出は南北アメリカやアフリカの奴隷貿易の印象が強く、欧州の極悪さが記憶され、それは間違えではない。しかし、アジアでは貿易の利益追求で費用のかかる軍事衝突を避けようとしたり、領土的野心が無かったり、18世紀までは砦に引きこもって地元勢力に対抗する国もあったりと、印象が違う側面もある。


4 非ヨーロッパ世界の軍事革命

4.2 限りある技術移入◇オスマン帝国とインド◇

3章でも見たように、アジアでは欧州各国は当初軍事衝突に消極的で、領土的野心はなかった。しかし、欧州国同士の競争の中で、否応なく領土征服をせざるをえなくなった。結果、イギリスはインドで莫大な税収と、現地徴用兵を得た。



5 革命のかなたへ


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