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とても大切な人やものを失うと人は精神的な死を体験する

人は大切な人やものを不意に失った時、悲嘆にくれたり、落ち込んだりする。それはとても自然なことで、自分のバランスを戻すまで時間がかかるのは普通のことだ。肉体的な死ではないが、精神的な死を迎えている。

私は6年半前に、30年を共に暮らしたパートナーと別れ、その半年後に20年間天職だと思っていた仕事を辞めることになった。両方とも予期していなかったことで、約3年間はほとんど毎日泣いていたし、真っ暗な日々を過ごしていた。その後の数年も空白状態でどうしていいかわからなかった。

最近になってやっと自分は立ち直ったなと思えるようになった。6年以上かかっている。えらく長いなと思うし、もっとなんとか早く立ち直れなかったのかと思うけれども、今安定した精神状態になって振り返ると、どうしても必要な年月だったんだと思う。日常的な小さな楽しいことは後半になって感じられるようになったけれども、苦しいことが多かった。

精神的な死と肉体の死は同じ経過をたどる

人が一人死んだような感じで、その人が自分だった。肉体は死ななかったけれども、もし前の生活を続けていたら、体も失っていただろう。ありがたいことに、体は死なない選択を私の無意識はしてくれた。が、精神的な死を経験した。その体験から思うことは、肉体の死も精神の死も同じようなプロセスを経るということだ。

まず死後硬直。体全体が大きな鉄の扉か何かに全速力でぶつかって、何が起こったかわからないが、ショックで伸びている状態。全てが麻痺する。が、すぐに激痛が来る。何か大変なことが起こったということはわかるのだが、ただ痛くて辛くて、必死に理解しようと試みるが頭がよく回らない。ただありえないことが起こっていて、それが現実なのだということが信じられない。

そのうちに自己融解が始まる。死体では胃液などの消化酵素が自分の体を分解させる過程だ。自分が何か間違ったこと、悪いことをしたからこんなに苦しくて辛い思いをしているのではないかと、自分を責めまくる。これがかなり長く続いた。大切な人やものを失ったもともとの悲しみ以上に苦しかったのは、この自己避難の部分だろう。同時になんとかならないか、元に戻すことはできないものかとまだ考え、抵抗していた。が、どうにもならない。つい最近までの現実と今の現実の差が大き過ぎて、その大きな裂け目の中にいる感じだ。

そして、微生物による腐敗が始まり、ウジもわくし、アリなどの昆虫類も来る。動物が来て食べて行ったりもする。今までの生きかた、当然だと思っていたこと、自分の存在、人や社会との関係性、生きていること、全てに対して疑問を持ち、これでよかったのか、自分は間違ったことをしていたのではないかと考え出す。でも、あんなに頑張って築いた関係だったし、人生をかけて仕事に打ち込んでいたじゃないか、と思う。頭の中のあるべき姿と現実との落差が天と地で、この深い溝は埋めようにも埋めることができない。この当時こんなに辛いのに生きていることが不思議だった。どんどん知っている自分が無くなっていく。その無くなっていく自分を受け入れることができず、抵抗するのだが、どうもできない。もう崩れ去ってしまっている、「過去」となっている現実を受け入れることができず、ただ自然の摂理として食われ、腐敗していく自分を見ていることしかできない。いつまで続くのかわからない。無力感。ここまでで3年の月日が経っている。

そのうちに間違っていたというわけではないのだが、もう今までのやり方や考え方ではやっていけない状態に来ていたという理解に至る。そしてもう使えない価値観や考えを自ら手放すしかないのだということを受け入れ始める。この段階まで来ると、苦しさはあるものの、そういう状態の自分を受け入れ始めているので、痛みは和らぎ始めている。これが、土に還っていく段階。白骨化したものは地上に残っているけれども、それ以外は平らな土があるだけになっていっている。

前の自分はもう失くなった。が、次の自分がどうなるのか全然わからない。どうしていいのかも全然わからない。ただわからないまま時間が過ぎていく。いろいろとやってみたりもするが、内からやりたいことというのが出てこない。ただ、日々の中で小さな喜びや楽しみを見つけて生きる。ありがたいことに、私はハワイの大自然の中で暮らしている。朝、たくさんの鳥たちが鳴き、濃い緑の木々の向こうの水平線から燃えるような太陽が上がって来るのを見るだけで感動する。こんな毎日を暮らしていると、土に還っていって、土壌を豊かにしているんだろうなあ、というぐらいの想像はつく。この土の中にいる期間がかなり長い。ここまででもう3年。姿かたちは無くなっても、土の中で土そのものとなるには時間がかかる。

土壌が死んだ私を融合して、その土の上に鳥や、虫たちや風が種を落としていく。どんな種なのかはわからない。その豊かになった土が相性のいい種の命を育んで、芽を出す。どんな植物になるのかは全然わからない。が、新しい生命だ。水と太陽の光と愛情を欠かさないようにしてあげよう。

死の過程にいる人(自分も含めて)には優しく見守ってあげよう

今こうして、自分の死と再生の体験を振り返って思うのは、痛くて苦しくて辛いから、自己の分解、腐敗の過程に抵抗するけれども、その抵抗さえ、自然なことで、抵抗している自分を受け入れてあげればもう少し楽だったかも知れない。一番大切なのは、そのときどきの自分に優しくしてあげ、それがどうみても悪あがきで悲痛なエゴの声であったとしても、受け入れてあげることだった。ちゃんとその声を聞いてあげることだと思う。私は鍼灸師であることで人の尊敬を得ていたことに当時は気づかなかったが、仕事を辞めざるを得なくなって初めて、それを失ってしまうことをひどく嘆いた。いわゆる承認欲求が強く、自分はこのエゴをどうしていいのかわからず、そういう自分をずっと責めていた。が、今となっては、この承認欲求はちゃんと満たしてあげるべきものだと思うようになった。ちゃんと自己存在を承認される経験が子どもの頃なかったから、今でもその欲求があるのは当然のことだ。これをエゴと判断していたということは、不必要に自分に厳しかったということになる。しんどいときこそ、優しさが必要なのだが、逆に厳しくなってしまう。優しくするだけの余裕がない。

死の過程はとても内側に崩れ込んでいく陰の作業だ。現代社会では何かをする、発信する、社会と関わる、動く、という全て陰陽で言う所の陽の生産的活動だけが評価され大切だとされてしまっている。死や鬱などは忌み嫌われるので、それを体験している自分もそういう自分を否定し受け入れられなくなっていることがほとんどだ。

落ち込んだり、何もできなかったりしているのは、十分に一生懸命に生きていることだし、ただ無駄に毎日を過ごしているわけではない。私たちは、そういう状態を良くないこと、なんとかして変えなければいけないことと思いがちで、逆にそういう姿勢が落ち込みや無力感を一層ひどくしていることに気づかなければいけない。大切な人やものを失うのは、自分の全部や一部が死ぬことなのだ。それが自分でもわからなかったり、当然周りにもわからないので、何かこれは異常で自分に問題があるのではないかと思い込んで自分を責め、もっと辛い思いをしている人たちがたくさんいる。

私の場合、3ヶ月経ったところで、もうこの嘆き悲しむのは終わりにして、外向きに活動しなければいけないと思った。無理な話であり、あまりに自分の状態に対して無自覚だ。が、あの状態で無自覚なのは仕方がない。こういう発想をしてしまうのは、生産性社会の弊害だ。

死ぬということは大変な作業なのだ。とてもエネルギーがいる。下手に社会の価値に沿うようにして簡単に復活するようなことをしては折角の死が台無しになる。味噌を漬けるようなもので、化学薬品を使って速成醸造をすれば、薄っぺらい味の味噌にしかならない。麹菌や酵母菌による分解と熟成をしっかり時間をかけて醸してこそ、深みとこくのある味噌ができあがる。微生物による分解は時間がかかるし、人間が下手に手を入れてはいけない。とても地味で外からは何が起こっているのかよくわからないけれど、とても大切な作業だ。大豆という形はなくなるし、味も別物になる。大豆にしてみれば、天と地がひっくり返るようなことだ。そっとしてあげて、愛情を持って見守るのが一番だ。

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そして、この死の過程をちゃんと生き抜いた自分に拍手を送りたい。よくやったね、よく頑張ったねと。死の過程が苦しいのは当然だ。苦しいと何か間違ったことをしているのかと思い違いをしてしまう。そして自分を責めてしまう。死を忌み嫌う生産性文化の中で生きていると、どうしてもそうなりがちだ。でも死があるからこそ、前の自分が完全に分解されてなくなり、土の栄養となり新しい生命が生まれる。死と再生に乾杯!

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