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BanBen's History Vol.1(2004年)
2004年2月にJICAボランティア調整員の任期終了後、すぐオルドスに赴いて教え子のつながりで植林地を決定。その他5月、7月、8月、12月と計5回オルドスを巡り、砂漠緑化以外に観光・農業・教育などの分野での協力の可能性を探りました。どこに行っても60度のオルドス白酒が付きまといます。宴会は時には辛いものでしたが、お互いの信頼関係を確かめる大切な儀式と割り切って何とか乗り切りました。特産物の販売につ
もっとみる46,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その3)
そして、実際にオルドスに行くことになる。ただその前に困難が立ちはだかった。
2003年。中国はSARS(重症急性呼吸器症候群)によって大変な事態になっていた。中国各地にいる隊員80人と毎日連絡を取りながら、職種や地域によって強制帰国。比較的安全な職種・地域の隊員は留まるか帰国か話し合って決めた。一番危険は北京にいた我々JICA職員は帰国組、自宅待機組、事務所出勤組の3グループに分かれてそれを1か
45,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その2)
せっかく辞めたのだから失業保険をもらいながらしばらくのんびり。当時は起業して砂漠緑化をするのではなく、会社に就職してその会社を説得して社員の身分で自分のやりたいこと=「オルドスの砂漠緑化」に取り組んでいきたいと思っていた。
遊園地はだめだった。次は何にしようか。暇だったのでよく図書館に行って新聞を端から端まで読んでいた。当然求人欄も目を通す。ある日、これだと思った求人があった。教育関係の会社。「
44,「塩を売って緑を買う男」になるまでの道のり(その1)
オルドスを離れて1か月間、一人でゆっくり中国を旅行しながら、自分の進路について考えていた。やりたいことをシンプルに突き詰めていくと答えは一つしかなかった。オルドスの砂漠を緑に戻すこと。
1994年8月、無事日本に帰国。しかし帰国から2週間後、再びオルドスの地に立っていた。すっかり「砂漠緑化熱」にとりつかれていた。しかし、どこからなにを始めていいかわからない。とくかく一刻も早くオルドスでの砂漠緑化
43,将来に向けて、そしてお別れの時
1994年3月に、また、早大生がやってきた。このように中身のある交流をきっかけに、また文通の輪が広がった。生徒の中には2人、3人と文通相手を増やしていく強者もいた。
3年の後期、生徒たちは4ヵ月後に受験を控えている。その頃から、自分の将来について熱っぽく語りにくる生徒が多くなってきた。中には日本関係に進みたいという生徒も出てきた。「僕は、今は理系だけど、日本語に興味があるから、1年浪人して、日本
39,チンギスハン陵
チンギスハンは今でもモンゴル族の英雄。その陵はオルドスのほぼ中央のイジンホロというところにある。東勝から南に車で1時間。前述のとおり、チンギスハンが西夏遠征時に鞭を落としたとされるところ。今は古代のモンゴル宮殿を模した3つのドームを有する巨大な建物が聳え立っている。実際はここにチンギスハンが眠っているわけではないが、年に4回祭事が執り行なわれ、モンゴル民族の聖地となっている。ボクは何度もこの陵を訪
もっとみる37,文通大作戦その後
最初に文通を始めた9人の生徒に届く日本からの手紙の影響は絶大で、その後も多くの生徒が文通を希望した。ボクもあらゆる機会と捉えて、文通の機会を作った。もちろん交流会の後、早大生との文通も始まった。
しかし順調に続いたものもあるが、途絶えたものもある。なぜ途絶えてしまったのか。いろいろ原因はあると思うが、モンゴル族の生徒にとっては日本語で手紙を1枚書くにも、大変な労力を費やす。それに文通とは回を重ね
36,日本人との交流
オルドスは砂漠化が進んでいる。ちょうどボクの活動が始まった1991年から、東勝の北西150kmほどのところにあるクブチ砂漠に日本のNGOが入って、砂漠緑化を進めていた。ボクはまたとないチャンスとばかりに、そのNGOの方々にボクの生徒たちとの交流を働きかけた。そして交流が実現するときがきた。
1993年2月、早稲田大学の学生を中心とした「緑の訪中団」10名がクブチ砂漠での砂漠緑化の合間に蒙古族中学
35,大晦日のパーティ
教室外での生徒との交流はたくさんあった。これは部屋が1年目は校舎、2年目からも生徒の宿舎の近くだったということもあるし、同じような条件で生活をしているので、一体感が沸いてくるのかもしれない。食堂もトイレも同じ、同じように水を汲みに行くし、同じように洗面器で洗濯をしていた。
でも、本当にいろいろなことを語り合ったり、深い付き合いができていたのはごく少数だった。基本は日々の授業。あとは僕の部屋で日本
34,隣のくまさん(その2)
クマさんは人付き合いがいい。友だちがたくさん彼の部屋を訪れる。夜だとたいていその後、外に出かけるか、その場で酒盛りが始まる。ボクも時々誘われた。楽しめることもあったが、酒はたくさん飲まされるし、それ以外のときはモンゴル語でしゃべり合うのでボクは蚊帳の外。つまらなくなり先に引き上げるというパターンが多かった。
時々、彼らの酒盛りは深夜まで続く。隣で寝ていると、大声で騒ぎ歌い、まさにドンチャン騒ぎ、
33,隣のくまさん(その1)
1992年9月ようやくボクの家が完成した。場所は校舎の北側、生徒たちの寮の隣。若手の先生数人と生徒たちが手伝ってくれたので引っ越しはあっという間に終わった。レンガ造りで外門があり、中庭もある。平屋の建屋は2つに分かれていて奥が僕の部屋、手前が若手の先生、クマさんの部屋だった。僕の部屋の広さは8畳くらい、校舎のときより心持広くなった。台所・シャワー・トイレはない。水道もない。基本的な条件は何も変わっ
もっとみる32,指定された教科書
学校側から指定された教科書は非常に使いにくかった。しかし当時中国の中学高校で日本語を学ぶ場合、必ずその教科書を使わなければならないとのことだった。
まあ、教科書はあくまでも日本語を教える上での1つに道具だと割り切って進めていったが、まったくこの教科書に触れないわけにもいかず、教案を考えるときはいつも苦しんだ。まず文が読み物中心で会話調の文章があまり出てこない。時々極端に難しい表現が出てくる。初級